徒然なる日々

るくりあが小説を載せたり舞台の感想を書いたりするもの。小説は文織詩生様【http://celestial-923.hatenablog.com/about】の創作をお借りしています。

金の花に盞を交わす

―貴方はまだ、知らない。

 私たちは本当の兄妹ではないということを、私が知っているということを。

 けれど、貴方がそう望むのなら、私はそれに従うだけ。だから、私は精一杯の笑顔を浮かべた。心が軋んだ音を立てるのを無視して。

 貴方が望むのなら、私は貴方の好きな笑顔をいくらでも浮かべることが出来るのだから。

 

 

 彼女から、会いに行くと連絡があった。

 初めて出会った頃よりも幼いその声は、嬉しそうに弾んでいて、こちらまで嬉しくなってしまった。

 私が、今も彼の側にいるように、彼女の側にもあの男がいるという。添い遂げられないからと、そう言いながら悲しそうに笑った彼女にもそういう人が現れたのだから、案外神様というのも悪い運命ばかりを与えるのではないのかもしれない。

 そう、考えることができるようになったぐらいには、この国も、世界も、変わったのだ。

 

「おはようございます、シオクラさん。」

 家の前を掃除していると、隣の家に住む少女が挨拶してきた。

「おはよう、リリア。これから買い物か?」

 えぇと彼女は頷く。天色の瞳と緩くウェーブのかかった鉛丹色の髪は、陽の光を受けて輝いていて、如何にも良家のお嬢様といった風だ。

「シオクラさんはなんだか嬉しそうですわ。何か良いことでもありましたの?」

 彼女に言われて顔を引き締めた。今朝、彼にも言われたばかりで、恥ずかしくなる。

「そ、そんなににやけているか?」

「いいえ。でも、雰囲気が柔らかいですわ。」

 私は咳払いをして、言った。

「古い友人が来る。……随分久しぶりに会うのでな。少し、楽しみなんだ。」

 彼女はまぁ!と言って微笑む。

 彼女からしたら永遠のような、随分古い友人だ。ずっとずっと、鳥籠に囚われていた彼女は、今の世の中が変わったことを嬉しく思っているだろうか。

「その方はシオクラさんと同じ稀人なんですの?」

 稀人は、人々に受け入れられ始めているのだから。

「リリア、まだここにいたのか。」

「お兄様。」

 家の中から彼女の兄が出てきた。萌葱色の瞳と深緋色の髪を持つ彼は、その髪を綺麗に纏め、いつも以上に整った格好をしている。こちらに会釈をすると、彼女の方を見遣った。

「では、いってくる。」

 いってらっしゃいませと見送った彼女の瞳が、悲しみの色を帯びている。私の視線に気がついた彼女は、眉尻を下げて笑った。

「お見合いなんですの。相手の方が、良い方だと良いのですが。」

 そう言って無理して笑う彼女に、いつかのあの子の姿が重なる。

「哀しいのか。」

 彼女は驚いたように目を見開くと、言った。

「たった一人の肉親ですから、寂しいのかもしれないですわ。」

 少し震えたその声に、気がつかないフリをして、そうかと答えた。

 

 家に入ると、彼が出かける支度をして待っていた。

「シオ、商店街に出かけるだろ?」

 暁の瞳が弓なりになって私を映す。初めて出会った彼と今まで出会った彼が、少しずつ違っていたとしても、これだけは変わることがない。

「あぁ。」

 彼には、あの子のことを稀人で、遠い親戚の子だと伝えた。私たちがもう何度も何度も出会い、そして幾度となく別れてきたことは言っていない。

 それは、私たち稀人だけが知っていれば良いことだから。

 外に出ると、持っていた買い物かごを持たれて手を繋がれた。普段なら振り払うところだが、今日に限っては悪くない。

「本当に楽しみなんだな。」

 そんなに表情に出ているのだろうか。こっそり頬をつねっていると、彼に笑われた。

 長く続いた世界大戦も、疲弊と、とある軍国の指導者暗殺によって収束を迎え、少しずつ平和な世の中が戻って来ている。市場は活気に溢れ、様々な品物が並んでいた。

「そういえば、その子はどこに住んでいるんだ?」

「今は西の大陸だ。連れの故郷らしい。」

 しばらく歩いた先にある魚屋で、煮付けにする魚の品定めをしていると、彼が小さく感嘆の声を上げる。

「どうした?」

「いや、綺麗な人たちだなぁって。」

 彼の指差す先には、異国の服を纏った幼子と青年。中性的な青年と、幼子でありながら、不思議な艶を持った少女は、極彩色の市場でも、一際目を引いていた。

 青年に片腕で抱かれている幼子の、緑色の瞳が私たちを映す。幼子が青年の肩を叩くと、彼らは私たちの方へ向かってきた。

「久しぶりだな、アモウ、リュウ。」

「お久しぶりです、シオさん。」

 彼女が嬉しそうに微笑む。私も自然と笑顔になった。惚けたように二人を見ている彼に向き直って言う。

「紹介しよう、アモウと保護者のリュウだ。」

 彼は、はっとすると、すぐに頭を下げた。

「はじめまして、ナルミと言います。」

 このやり取りも何度目だろうか。それでも私たちは、飽きずに繰り返す。愛しい人に、出逢うために。

「はじめまして、ナルさん。」

 あの頃とは違う、幼い大きな緑の瞳に、彼の姿がまた、映し出された。

 

 

―もう泣かないと決めたから。

 この心に永遠の蓋をして、貴方の幸せを願う時、私はちゃんと笑えていましたか。私は、貴方と貴方の選んだ人を祝福できていましたか。

 貴方の記憶に残る私が、貴方の好きな私であるようにと願って、貴方のことを愛してしまった私は、眠りについた。

 

 稀人。

 人々の中にごく少ない割合で現れる、神話の世界の、神のような力を持った人のことで、その能力、寿命は様々である。彼らの存在は、ほんの数十年前まで秘匿されていたが、ある国がその存在を発表したことにより、私たちの暮らすこの国でも、永く虐げられていた彼らが認められることとなった。

「こんにちは。」

 目の前に立つ彼女の背に合わせて、しゃがんでそう言うと、彼女は少し困ったように笑って言った。

「こんにちは。はじめまして。」

「シオクラさんが古い友人とおっしゃっていましたから、どんな方が来られるのかと思っていたら、可愛らしい方で驚きましたわ。」

 私がそう言うと、黎明色の瞳をしたその人はくつくつと笑った。その様子を見ていた彼女は口を尖らせる。

「リリア、この子はアモウ。こう見えて君より年上なんだ。」

 私が目を瞬かせていると、彼女を見上げていたその子は私を見て恥ずかしそうに頬を染めて、ふわりと大きな袖で顔を隠してしまう。

「リリアさん……そんなに見つめないでもらえますか?」

 言われてようやく、自分がずっと見てしまっていたことに気がついた。謝ろうとした時、彼女の後ろに人が現れて、あっという間に抱きかかえられてしまった。

「愛いのじゃから致し方ないであろう?」

 藍色の髪を長く伸ばした男は、私に同意を求めるように首を傾げる。

「えぇ。本当に可愛らしいですわ。」

「……リュウさんはそればかり。」

 完全に拗ねてしまったのか横を向いてしまった彼女を見て、シオクラさんは可笑しそうに笑った。

「リリア、こっちは保護者のリュウだ。」

「よろしく頼むぞ。」

 艶やかに微笑んだ男性は、握手をすると降ろしてくれと言っている少女を宥め出す。その様子を笑って見ていた彼女の肩をつつく。

「あの、男性の方も稀人ですの?」

 すると彼女は少し考えたあと、こう言った。

「……いや。私もあまり詳しく知らないんだ。本人に聞いてみると良い。」

 立て板に水の彼に、諦めたらしい少女はむくれたまま大人しくしている。それを愛おしそうに見つめる彼をじっと見ていると、こちらに気がついたのか目を細めた。

「リリア。」

 私が背にしていた道から帰って来た人が、私を呼ぶ。

「お兄様、おかえりなさいませ。」

「ただいま。……そちらの方は?」

 異国の服を纏った2人は目立つのだろう。彼らを訝しげに見てそう言った。

「紹介しますわ。シオクラさんのご友人のリュウさんとアモウさん。こちらは兄のガイラス。」

「しばらく世話になる故、よろしく頼む。」

 その人は、そう言って微笑む彼に会釈すると、家に入ってしまう。

「……今日も見合いか?」

「えぇ。お相手の方が良い方で、近々ご両親に改めてご挨拶に行くそうですわ。今日はお二人でお出かけに。」

 そう言いながら、胸がぎゅっと締め付けられる。でも、彼が望んだことだから。

「上手くいきそうで、私もほっとしていますわ。」

 彼女は少し悲しそうな顔をすると、そうだなと頷いた。そんな私たちの様子を、少女がじっと見ていたことなど露ほども知らずに。

 

 その手は、私のものだと思っていた。幼い頃から私の手に重なる綺麗で、大きな手が、私の思う形で重なることは、もうきっとないのだろう。私が彼に想いを告げた日から、これからもずっと。

 忘れもしないあの日は、淡雪のように桃色が舞っていた。私は高等学校の卒業式のその日に、一世一代の告白をした。

 兄が、好きだと。

「それは、勘違いだリリア。親愛と恋愛は違う。」

 彼は驚いた顔をした後、そう言って私を諭す。私のうるさいほど脈打っていた心臓は、ゆっくりと落ち着いて、そして胸が詰まった。

「……違いますわ。私は……!」

 私は、次の言葉を紡ぐことが出来なかった。彼はとても、とても悲しい顔をしていたから。

「……お前の気持ちには答えられない。なぜなら、俺たちは兄妹だからだ。」

 貴方がそれを望むなら。それなら、私は……。

「リリアさん?」

 下から聞こえた声に、急激に周りの音が戻ってくる。声の方向を見ると、鼻を赤くした少女がこちらを心配そうに見ていた。

「あら、アモウさん。」

「大丈夫ですか?あまりにも、うわの空でお掃除なさってるので、つい……。」

 話すたびに小さな口から吐き出される息が白い。寒そうな彼女に、羽織っていたカーディガンを肩に掛けようと、身長に合わせて屈む。すると、小さな掌が私の頬を覆った。

「何か悩みごとがあるんですね?」

 冷たく冷え切ってしまった、私の心のような空気に、甘く暖かな香りが混ざる。その香りに、何故だか無性に泣きたくなった。

「私で良ければ聞きますよ。」

 薄桃の唇が弧を描く。私は、その小さな少女を家へと招いた。

「散らかっていてすみません。今、お茶を淹れますわ。」

「お構いなく。」

 ソファにちょこんと腰掛けた彼女は、確かに見た目にそぐわぬ落ち着きと包容力を持っているように感じる。牛乳で煮出した紅茶を出せば、礼を言われた。

 無言の空間に彼女が息を吹きかける音が響く。いざ話そうとすると、尻込んでしまう私を見兼ねてか、彼女が先に口を開いた。

「リリアさんから見て、私とリュウさんはどう見えます?」

 突飛な質問に、私は考えを止める。彼女は何でもないように小首を傾げていた。彼女と、あの中性的な彼の関係。

「……親子ではないのです?」

 似ていないな、とは思う。だけれども、私は隣に住むあの人から、彼は保護者であると聞いていた。

 その言葉を聞いて、彼女はころころと笑う。

「違う、と言ったらどうですか?」

「え……。」

 言葉に詰まった私に、彼女は一口紅茶を飲むと言った。

「私たちは、関係性を言葉や法律上の関係で理解しています。他者からの言葉、戸籍……仮にそれが、真の関係とは違ったとしても。」

 そうでしょう?と微笑む彼女に、私はゆっくりと口を開く。まだ、誰にも話したことのない胸の内を、この不思議な、そして的確に私の心を言い当てた少女に、吐露してしまおうと思った。

「……兄が、結婚することになりました。」

 彼女はソーサーにカップを置くと、話の先を促すように頷く。

「私は……。私は、お兄様が幸せであればそれでいいと、お兄様が望むなら、私はずっとお兄様の望む関係でいようと、そう、思っていましたの。」

 ほろりと溢れた滴のせいか、堰を切ったように私は彼女に話し続けた。兄に持ってしまった感情、血の繋がりのない私と兄の関係、そして、辛い胸の内を。

「お兄様に結婚を告げられた時、私は心にもない祝いの言葉を言いましたわ。そうすると、お兄様は……ほっとしたようにありがとう、と。」

 いつのまにか、私の涙を拭い、背中を優しく撫でる彼女は、慈愛に満ちた顔で何度も頷いた。

「辛かったですね。」

 他人に話してしまうと、なんて心が軽くなるんだろう。散々泣いて落ち着いた頃、扉が叩かれる音が響いた。

「お兄様かしら。」

 扉を開けると、ふわりと甘い香りがして藍色の髪がさらりと舞った。

「こんばんは。アモウは来ておるかのう?」

「えぇ。」

 私が呼ぶと軽い足音が聞こえて、彼女が奥から顔を覗かせる。すると、紅がさされた彼の目元が緩められ、男性にしては細くて綺麗な手が、たおやかに彼女を招いた。

「用は済んだかえ?そろそろ夕飯時じゃ。」

 その言葉に彼女が私を見上げたので、大丈夫だと微笑んでみせる。彼に抱き上げられた彼女は、私と同じ目線になると目を合わせてこう言った。

「私が、どちらかの記憶を消してあげましょうか?」

 彼女は、幼い少女の姿に似つかわしくないほど艶やかな笑みを浮かべる。

 どちらかの記憶を消す。それはつまり、私か兄の記憶を消して、今の関係を、感情を、無かったことにするということだろうか。

「それは……。」

「辛いのならそういう選択肢もある、ということです。考えてみてください。」

 扉がパタリと閉まる。残されたのは、立ち尽くしたままの私と、甘く香る匂いだった。

 

「夕飯は済ませてくる。」

「はい、いってらっしゃいませ。」

 お兄様は、今日もあの人と出かけるのだろう。まだ、写真でしか見たことのない、美しくて意志の強そうな瞳をした、素敵な女性と。

 白い息が、青い空に立ち上って消えてゆく。こんな風に、私の思いが簡単に消えたなら。こんなに苦しむこともないのに。

 それをぼんやりと眺めていて、私は近づいてくる人に気がつかなかった。

フローレスくん。」

「……え、まぁ!教授!」

 私の肩を叩いたのは、所属する研究室の教授で、慌てて頭を下げる。

「隣、良いかな?」

 にこやかに微笑む彼は、頷いた私の隣に腰掛けると研究材料なのだろうか、古めかしい手帳を読み始めた。

「そういえば、シオクラさんのお友だちとはもう会ったのかい?」

「えぇ。小さくて可愛らしい方ですわ。」

 彼は読み物をする時にかけている眼鏡を押し上げると、その奥の瞳を輝かせてこちらを見る。

「それは幼い稀人なのかい!?それとも幼い姿でずっと過ごしている!?いや、それよりも会いたい!是非会って話をさせて欲しい!!」

 一気に捲し立てた彼に、私は苦笑する。普段は穏やかで優しい人なのだが、稀人のこととなるとこうだ。でも、そんな彼を見ていると、鬱々とした気分が晴れる気がする。

「幼い姿、なのだと思いますわ。会ってくれるかは……聞いてみないと分からないですけれど。話してみますわね。」

 苦笑した私に気がつかずに、頼んだよと、女学生たちに人気の優しい笑顔を浮かべた彼は、なおも話し続ける。基本的に良い人なのだ。話は長いけれど。

「講義でも話したけれど、稀人には二つのパターンが存在することが分かっているんだ。Ⅰ型は私たちと同じように歳を取り、Ⅱ型はそうではない。彼女が、今までどのぐらい生きてきたかは分からないけれど、きっと……。」

 彼はそこで言葉を切る。彼の手帳を冷たい風が捲って、バラバラと音を立てた。

「ときにフローレス君。君は人を愛したことがあるかい?」

 思いもしないところから、私の悩みに切り込んできて、動揺する。こちらを見ている彼にそんなつもりはないのだろうけれど。

「えぇ。」

 彼は頷くと指を一本立てた。

「想像してみて欲しい。君は病に侵されてしまった。」

 絶対に治らず、命は短いんだ、と彼は付け加える。

「けれど、愛する人はずっと側にいると言ってくれる。さて、君ならどうする?」

 私なら、どうするだろう。少しでも長く彼と共にありたいと思うだろうか。

 嗚呼、きっと彼は私が望めばそうしてくれるに違いない。けれど

「……私なら、忘れてくれと。私にとっての一番大切なことは、愛した人が幸せになることですから。」

「きっと、稀人たちも同じ選択を迫られたと思うよ。」

 彼の左右に流された髪が一房、傾けた顔とともにはらりと額に落ちた。彼は徐に手帳に目を落とし、その文字をそっと指で撫ぜる。

「Ⅰ型の稀人は自分の短い命、そしてⅡ型の稀人は他人の短い命に。愛する人と共にいられないことは、同じだから。」

 だから彼女は、私にあえてあんなことを言ったのだろうか。自分が選べない何かを、選び取って欲しいから。

「そうですわ。彼女、教授と同じような髪色なんですの。もしかしたら、」

「故郷が同じということかい!?ますます会いたい!」

 どこまでも研究熱心な彼に、笑みが溢れる。彼女に、伝えよう。なるべく早く。

 私はそっと、息を吐き出した。

 

 その日、彼に強請って街まで出かけた。彼に似合うかを聞きながら服を買って、洋食店でお昼ご飯を食べる。他愛もない話を沢山して、笑って、揶揄われて少し怒って。

 そして、帰路についた。

「お兄様。今日はありがとうございました。」

「いや、構わない。だが、急に言い出したから驚いた。」

 夕暮れが、少し遅くなったと感じる。橙と薄紫の混ざった空から零れる光が、私たちの前に仲睦まじく伸びる影を作っていた。ゆらりゆらりと揺れるそれは、くっついたり離れたりを繰り返している。未だ揺れる心のように。

「ふふ。妹の私が、お兄様を独り占めできなくなるんですから、許して欲しいですわ。」

「……そうだな。」

 ほんの少し躊躇いながら、彼は私の頭を撫ぜる。嗚呼、もうすぐ、この幸せな時間も終わるのだ。

「お兄様、ご結婚おめでとうございます。」

「突然だな。まだ挨拶には行ってないんだ。気が早い。」

 彼は、私の言葉に困ったように笑ってそう言った。胸の痛みを無視して、私は笑う。

 貴方の記憶の中の私が、貴方の好きな私であるようにと。

「私は、お兄様の幸せをずっと、変わらず祈っていますのよ?」

「……ありがとう、リリア。」

 はにかむ貴方に頷いてみせて、私はこの心に蓋をする。そして、永遠に外れない鍵をかけてもらうのだ。

 彼女が指定したのは、商店街のはずれにある、幼い頃、彼とよく遊んだ公園だった。そこを通りかかると、紅色の花を咲かせる木の下に、二人は立っている。散る花弁は、彼女と藍色の彼を覆って、まるでこちら側とそちら側が違うような、そんな気持ちにさせた。

「あれは……隣の家の客人か?」

「えぇ、少しお話してきますわ。」

 それなら先に帰っていよう、と私の持っていた荷物を持ってくれる。

「ありがとうございます。」

「またあとで。」

 家へと向かう彼の後ろ姿に、そっと呟いた。今の私が貴方に会うことは、もう、ない。

「さようなら。……愛していましたの、お兄様。」

 私は踵を返すと、公園の奥へと向かう。近づくにつれて木の下には、少女と青年と、そして彼女がいることが分かった。

 私が立ち止まると、彼女が口を開く。

「覚悟は、決まったか?」

 黎明色の瞳が私を写す。私は、ゆっくりと首を縦に振った。

「では問おう。」

 風が私たちの髪と花弁を巻き上げる。
「お前が望む幸せの形は何だ?」

 三対の瞳がこちらに向けられる。私は、痛む胸と、それで良いのかと問いかける自分の心を無視して、言葉を紡いだ。

「私の記憶を……消してくださいませ。」

 沈黙が辺りを支配する。私は不安になって、さらに言葉を続けた。

「あ、あの、馬鹿な選択だって分かっています!それに、アモウさんの命を縮めることにもなりますし。その……私は、わがままですね……。」

 よく考えてみたら、なんて自分勝手な願いなのだろうと思う。他人を犠牲にして、自分の願いを叶えようなんて。

 すると、藍色の彼は首を横に振る。

「それがお主の選択なら否定せん。それ以前に、この子が言い出したことじゃからのう。」

 そう言って彼は赤い髪を優しく撫ぜ、相対した私の本心を探るかのように視線を向けた。

「後悔はありませんか?」

「はい。」

 少女の問いに私は是と返す。少女は頷くと、承知しておいて欲しいことがあると言った。

「記憶を完全に、まっさらに消すことはできません。何かの拍子に思い出すことも、違和感を感じることも、記録として見てしまうこともあります。」

 少女は困ったように眉尻を下げて笑う。

「見てしまいそうなものは、全て片付けて来ましたわ。」

 私が微笑んで見せると、彼女もつられたように少し笑った。

「それよりも……歳を取ると聞きました。良いんですの?」

「えぇ。リリアさんをだしにして、というわけではありませんが、この身体、不便なんですよ。」

 手が届かないところがたくさん、と少し拗ねたように言うのが可愛らしくて、私はつい声をたてて笑ってしまう。

「わしは気に入っておるのじゃが……。」

「本当に、リュウさんはそればかり……。私が幼いと出来ないこともあるでしょう?」

 そう言って彼を見上げた彼女が、急に大人の女性に見えて、私は顔が火照るのを感じた。

 そこではたと気がつく。あの日の甘い匂いは、二人とも同じだったと。

「リリア。」

 背の高い彼女に、名前を呼ばれてはっとする。彼女はこちらをしっかりと見ると、良いんだな?と聞いた。

「えぇ。兄のことをよろしくお願いします。」

 私が言うと、ゆっくりと頷いてくれる。少女が近づいてきて、私に手を伸ばしたので、少し屈んで顔を近づけた。

 そっと瞳を閉じる前に見えたのは、夕陽に照らされた赤い月と、舞う少女の同じ色。

「リリアさんの気持ち、記憶と共に私が預かっておきます。……幸せになれますよう。」

 小さな手が頬に添えられる。

ふわりと香る甘い匂いと共に、そっと。少女の唇が額に、触れた。

 

 

ー分かっていた。

 ただ、見ないふりをしていただけだと。何故なら君にそれを告げられた時、胸が高鳴った。

 けれど、冷静な自分がささやいた。

 お前は兄だろう?と。

 だから、見えないようにそっと、心の奥底に、本当を仕舞い込んだのだ。

 

 公園で寝てしまったと告げられた時。嗚呼、懐かしいなと思った。

 幼い頃のように、遊び疲れてしまったのかと、いつまでも妹は妹のままだなと、背中の温もりにそう思っていた。

「……誰?」

 次の日。起きてこない彼女を心配して起こしに行くと、寝台の上で所在無さげに身を起こし、そう言ったのだ。

「リリア、何の冗談だ。」

「……リリア。それが私の名前?」

 俺が愛して、愛していたからこそ関係を守りたかった彼女は、妹ですらなくなってしまった。

「いってきます、お兄様。」

「……いってらっしゃい。」

 蝉の鳴く、まぶしい通りへ出ていく彼女を手を振って見送る。

 あの後、彼女を医者に見せたところ、記憶の全てを失っている訳ではないという診断だった。

 自分のことと、人間関係やそれに付随する、所謂“思い出”と呼ぶものがすっぽりと抜け落ちているだけで、勉強や社会常識、そういったものの記憶はあると。

 そのおかげで、彼女は新学期に間に合うように大学へ通うことができ、記憶を失ったことも学友や教授が受け入れてくれた。

「結果的に、良かったはずだ。」

 見合い相手に会いに行くと告げるたび、悲しそうな顔をする彼女を、無理して祝いの言葉をくれる彼女を、もう見なくて良い。むしろ正しい兄妹に戻った。唯、それだけのはずだ。

 それなのに、彼女を見る度に痛むこの胸は何なのだろうか。

 気分を変えてたまには出かけよう、と読みかけの本を持って照り付ける太陽の下、行きつけのカフェへ向かう。通りを歩いていると、前から来た見覚えのある人と目が合った。

「ガイラス殿じゃったかの?」

「えぇ。……リュウさん、ですよね。」

 よく覚えておったのう!と嬉しそうな彼の手には食材の入った袋がいくつか抱かれている。

「買い物ですか?お子さんの姿がないようですが……。」

 彼はほんの少し口を開けて固まった後、長い袖で口元を覆った。何故かほんの少し肩が震えている。

「アモウのことかえ?今は療養中じゃ。」

 少し体調が優れなくての、と彼は眉を下げた。そうであれば、こんな所で引き留めてしまっては申し訳ないと、別れの言葉を伝えると、彼の声が背中から聞こえる。

「お主はそれで良かったのかえ?」

 何を言っているのか分からずに振り返ると彼は、艶やかな唇で弧を描いていた。

「……何をおっしゃりたいのです?」

 逸らされない藍色は、俺の奥底の気持ちすら見ているようで、居心地が悪い。

「リリア嬢のことで悩んでいるのであれば、ヒースコート教授を訪ねてみると良い。」

 これ以上は別料金じゃ、と唇に人差し指を当てた彼は、藍色で弧を描いて去っていく。残された俺は、読む気を無くしてしまった本を握りしめるだけだった。

 

 

 藍色の彼の質問の意図はなにか。答えは出ないまま教授に会う日となり、彼女の通う大學校の門をくぐる。彼の研究室は職員棟の3階で、ドアにはHeathcoatと書かれたプレートが下げてあった。

 ノックをすると、どうぞという声が聞こえ、ドアを開く。そこは想像していた教授という職業の人の部屋よりも幾分綺麗で広く、本棚の間にはソファとローテーブルの置かれた場所があった。

 先客がいたようで、室内は紅茶の香りが漂い、教授の彼以外に異国の服を纏った少女が1人、座っている。

「はじめましてフローレスさん。ロナルド・ヒースコートと申します。」

「はじめまして。お時間いただきありがとうございます。」

 彼はにこりと笑うと、身体をずらした。その後ろには、先ほどまで座っていた少女が立っている。

「こんにちは、ガイラスさん。」

「君は……?」

 どこかで会ったのか、少女ははじめましてとは言わなかった。齢は女学生の頃か、大學校の生徒にしては少し幼く見える。

「アモウくん、会ったことがあると言っていなかったかい?」

「えぇ。でも、この姿では初めてですから。」

 彼は目の前の少女を“アモウ”と呼んだ。自分の知っているアモウは、あのリュウという男に抱かれた幼な子だ。そんなはずはないが、思い当たる節があり、口を開く。

「もしや君も、稀人……。」

 少女は何も言わずに艶やかに微笑んだ。彼にどうぞ座って、と言われて自分がぼぅっと立っていたことに気がつく。ベロア生地の座面に座ると、向かいに少女、その隣に彼が座った。

「さて、フローレスさん、今日はどのような御用件で。」

 彼はティーポットから紅茶を注いで出してくれる。紅い水面に映る自分は、なんとも情けない顔をしていた。

「リリアのことで……。その、妹は、どうですか?」

 彼はカップをソーサーに置いて頷く。金縁の眼鏡を押し上げると彼は微笑んだ。

「何も問題なく。彼女は優秀ですね。学生生活という意味では、まだ少し慣れるまでに時間がかかるかもしれませんが。」

 ゼミに入る際の小論文もよく書けていましたよ、と彼は机に積まれた資料の中から紙の束を出してくれる。そこには彼女の字で『稀人への偏見とその歴史について』と書かれていた。

「妹は……稀人の研究をしているんですね。」

 彼は首を縦に振る。少女は、我関せずといった様子でテーブルの上のお茶菓子を取って口に運んだ。

「知り合いに稀人がいて、もっと知りたいと思った、そう言っていましたよ。だから僕のゼミがあるこの大學校に入ったとも。」

 どうしてこの学校を選んだのか、そんな些細なことすら知らなかった。あの日以来、無意識に会話をすることを避けていたのかもしれない。

「……そうですか。」

 沈黙があたりを支配する。開かれた窓からは、湿った風が雨の匂いを運んできて、夕立が来ることを伝えていた。

「一雨来そうですね。」

 彼は窓の外を見てそう言うと、落ちていた前髪を払う。意を決して、息を吸った。

「ヒースコート教授、リリアの記憶に関して何か知っていらっしゃいますか。どんな些細なことでも良いんです。」

 分からなかった。だから、彼の助言通り1番聞きたいことをこの人に聞いてみるべきだと思ったのだ。俺が深く考えて答えが出るのなら、とっくに出ているだろうと。

「なるほど。」

 答えたのは彼ではなく、隣に座っていた少女だった。彼女は持っていたカップをテーブルに置くと口を開く。

「貴方はリリアさんのことになると、とても臆病になる。」

 鈴を転がすように笑った少女の孔雀色の瞳が、こちらを見た。

「私がリリアさんの記憶を消したんです。」

「っなん、だと……?」

 アモウくん!と嗜めた彼の声を無視して、少女は言葉を続ける。

「聞こえなかったですか?私が、リリアさんの記憶を奪ったんですよ。」

 立ち上がり、少女の胸ぐらを掴む。顔色ひとつ変えない少女は、こちらを冷たい瞳で見た。

止めようとした彼を少女が制す。

「……戻せ。リリアの記憶を。」

「無理な相談です。」

 ギリギリと掴んだ布が嫌な音を立てた。手首を存外力強く少女が掴む。

「今のリリアさんは、貴方の望んだ、妹の、リリアさんでしょう?」

 少女は、俺の心の奥の、奥に隠した部分を的確についた。頭が真っ白になって、掴んでいた手から力が抜ける。少女はシワの寄ったシルクを戻すように撫で、少し頭を冷やしてきます、と部屋を出て行った。

 力が抜けたように腰を下ろすと、心配そうに見ていた彼が、悲しそうに微笑む。

「……許してあげて下さい。彼女は生半可な気持ちでフローレスくんの記憶を消したわけじゃないんですよ。」

 彼は立ち上がると水を沸かすために卓上コンロの火を付けた。しばらくするとくつくつと沸騰する音が聞こえ、注ぎ口からは湯気が出始める。

「まるで神じゃないか。人の記憶を操作出来るなんて……。」

「それは違います。」

 俺の言葉に、彼はきっぱりと否定の言葉を口にした。視線を向けると、彼は薬缶からティーポットへとお湯を注いでいる。ティージーを被せた彼と目があった。

「彼女たち稀人は、対価を払って初めて力が使えます。決して、神のように万能ではない。」

「……それでも、あの子がリリアの記憶を奪ったという事実は変わらない。」

 眼鏡の奥で葡萄色の瞳が細められる。彼はアモウくんは、と口火を切った。

「彼女は、確かにフローレスくんの記憶を消した。その選択肢を与えてしまった。でも、それを選んだのは、紛れもなくフローレスくんです。」

 沈黙が降りる。少女が無理矢理彼女の記憶を奪ったわけではないのは分かっていた。けれど、少女が増やした“無かったことにする”という選択肢を、俺は選んで欲しくなかったのだ。

「……リリアは、全て忘れたかったのでしょうか。」

 ポツリと零した声に、彼は眉を下げる。パチリと懐中時計を閉じた彼が、ティーポットから紅茶を注ぎ、カップを目の前に置いた。

「答えになるかは分かりませんが、一つ昔話をしましょうか。」

 稀人が軍に管理されていた頃、施設で働いていた軍人の手記に載っていたものです、と彼は古びた手帳を取り出すと、話始める。

「ある日、軍から脱走した男が何故か戻ってきた。その男は記憶の全てを失っていた。既知だったこの手記の男性には、彼が変わってしまったように感じた、と。」

「今のリリアと同じ……。」

 ぽつりと零した言葉に、彼はそうですねと頷いた。

「そして、こうも書かれています。けれどそれは、彼がまっさらな赤ん坊のようになっただけで、彼の生来の姿は今の彼なのだろう。とね。」

 私の個人的な意見ではありますが、と前置きをして彼は続ける。

「何を持ってして彼を彼として認識するか。彼という存在は、確実に、変わっていないわけですから。」

 そう、彼の言う通り彼女という存在自体は何ら変わっていないのだ、変わったとすればそれは。

「好きなのですわ、誰よりも。」

「いってきます、お兄様。」

 愛していると告げた、自分に家族とは違う感情を持つ彼女と、それを持たない彼女。向けられた感情を受けていた自分が、寂しさに似たなにかを抱いてしまっているからなのだ。

 あの日の、あの時の自分が、望んだ在り方になっただけだというのに。

 湯気の消えた紅茶の海に映るのは、ひどい顔をした自分で、乾いた笑いが漏れた。

 

 雨上がりの、纏わりつくような空気とまだ濡れた道。あの日、彼女が眠っていたベンチに、触れる部分が濡れるのも構わず、そこに座っていた。

「……フローレスさん?」

 声をかけられて俯いていた顔を上げると、そこには隣人の彼が立っている。

「ナルミさん……。」

 こんなところで奇遇ですね、と彼は微笑んだ。そして、何を考えたのか少しの間の後、隣に腰を下ろして、こちらを見る。

「何かありましたか?」

 彼は心配そうにそう言うと、いくらでも答えを待つ、とでも言うように少し離れたところに植っている木々を眺めた。釣られて視線を向けると、あの日は満開だった、と関係のないことが思い出される。

 もう、半年以上経ったのだ。

「……例えば、の話です。」

 彼は無言で頷く。腿に乗せるようにしていた腕の先、祈るように組んでいた指を組み替える。

「もし、シオクラさんが、今のシオクラさんでなくなってしまったら……。ナルミさんはどうしますか?」

 彼は少しだけ目を見開くと、そっと視線を落とした。そして、前を向いて口を開く。

「……最初は受け入れられないかもしれないですね。」

 ポツリと放たれた言葉は、無言の空間に落ちて、霧散した。でも、と彼は続ける。

「彼女は、俺との記憶をなくしても彼女だから。」

 雨に洗われて、眩しいほどに輝く空と同じ色の瞳がこちらを向いた。そして弓のように細められる。

フローレスさんは輪廻転生、って信じますか?」

 そう聞いた彼は、ほんの少し迷うように口を震わせた後、瞳をゆっくり閉じた。

「俺はあるかもしれない、って思ってるんです。」

 曰く、既視感を覚えることが昔から多かったと彼は言う。

「彼女に初めて会った時、何故か安心したんです。」

 変ですよねと彼は微笑んだ。気の利いた返事が出てこなくて口をつぐむ。

「だから、俺はもし輪廻転生があるとしたら、彼女が彼女として俺の前に現れてくれる限り、彼女を愛するために何度でも生まれ変わりたいと思うんです。」

 湿った風が髪を巻き上げた。その言葉にハッとする。記憶を失う前の彼女は、あの日なんと言っていたか……。

ーそうそう、前にナルミさんに、もしエンさんが永遠のような命を持っていたらどうしますか、って聞いたんです。

 ケーキを突いていたフォークを置いて、彼女はうっとりとした表情を浮かべた。

「“彼女を愛するために何度でも生まれ変わるよ”ですって!私、素敵すぎて言葉が出なかったですわ!」

 頬を染める彼女に、自分はなんと言ったのだったか。嗚呼、そうか。だから彼女は。

「……ナルミさんは、良い人ですね。」

 今の話の流れでそうはならない言葉だろうに、彼は照れたように微笑む。きっと、彼のように優しければ、彼女の選択を無駄にすることをしなかったのに。

 でも、もう気がついてしまったからには止められない。自分が案外、猪突猛進で、かつ彼女のことになるとそうはならないことを、あの赤毛の少女が教えてくれてしまったから。

 

「おかえりなさい。ねぇお兄様聞いてくださる?」

 玄関先で出迎えてくれた彼女は嬉しそうに話しかけてくる。何も知らない純粋な瞳がこちらを射抜いた。

月下美人の花が咲きそうなんです!夕飯が終わったら一緒に見ましょう?」

「あぁ。」

 頷いてやれば、そうと決まったら早く夕飯を食べましょう、と食卓へ促される。

 数年前に隣人の彼女から貰った種を彼女が大事に育てていた月下美人。夏に花が咲くとは聞いていたものの、中々花をつけず残念がっていた。

「お兄様?」

 手にしていたフォークを置いて、彼女がこちらを覗き込む。

「いや、前から楽しみにしていたな、と。」

「そうですか!ふふ、同じところもあるものですね。」

 同じところ、ではないのだ。彼女は、ずっと彼女であることは間違いないのだから。

 だから、俺はきっと、諦められていたはずの彼女を、彼女が諦めようとさせてくれた彼女を、また愛してしまったのだろう。

 ゆるりゆるりと開いていく花を、月華が照らす。以前、隣人に貰った地酒を小さな猪口に注いでくい、と煽った。

 隣で静かに見つめている彼女は、こちらの視線に気がつくと、にこりと笑う。とくん、と心臓が跳ねた。

 あの日の彼女もこんな気持ちだったのだろうか。柄にもなく猪口を置く手が震える。

「……リリア。」

 夜色になった瞳がこちらを向いた。部屋から漏れる光が、横顔を照らす。

「俺があの日、あんなことを言ったから、お前は妹でいてくれたのだと思う。」

 ぱちりと、黄金色に輝く睫毛が瞬いた。息を吸い込む音がやけに鮮明に聞こえる。

「愛している、リリア。あの日より前からずっと。」

 揺れた水面が一度隠れて、見えて、音もなく一つ、滴が落ちた。震えた唇が窄められる。

「……本当に……?」

「……あぁ。」

 ぽつり、ぽつりと落ちる水滴をそっと拭うと、彼女は俺の手を両の手で握って額に当てた。

「……いいんですの?私は、もうお兄様の妹ではいられませんわ。」

 伝えなければならない。あの日、伝え損ねたこの想いを。

「リリアは……リリアだろう?」

 そっと抱き寄せれば、肩がじわりと濡れていくのが分かる。雲が晴れて、月光が降り注いだ。

 そっと彼女から身体を離して、置いていた猪口に酒を注ぐ。それを三度に分けて飲み干して、今度は彼女に勧めた。彼女は頬を紅色に染めながら、くすくすと笑う。

「もう、お兄様ったら。」

 密やかな三献の儀は、月と月の名を冠したその花だけが、ひっそりと見守っていた。

 

 

 穴から引き抜かれた鉄の塊を、手のひらに握り込む。物心ついた頃から暮らしたこの家とも、別れの時が訪れたのだ。

「リリア。」

 振り返るとそこには、薄紫の瞳をした彼女と、その伴侶。

「シオさん。……今まで、お世話になりました。」

 頭を下げると、軽く二度頭を撫でられる。感極まって抱きつけば、驚いたように固まった後、背中に手が回された。

「幸せになれよ。」

 心なしか潤んだ瞳でそう言われると、胸が詰まって、もっと伝えたいことがあるはずなのに、何も言えなくなる。

「……はい。」

 ふわりと風が吹く。青い空さえも旅立を祝福しているかのようだ。

「色々と、ご迷惑をおかけしました。」

「いやいや。ただ……シオが寂しがるんで、たまには遊びに来てくださいね。」

 隣に立つ彼の挨拶に、茶目っ気たっぷりに返された言葉は、彼女の眉を吊り上げさせた。

「ナル……!」

「本当のことだろ?あ、お屋敷はちゃんと俺らで管理しておくからさ。」

 頷いて、手にしていた鍵を渡すと彼はにっこりと笑う。彼がそっと肩を叩いた。

「リリア、電車の時間が迫っている。名残惜しいのは分かるが……。」

 その言葉に是をと答えて、二人に笑いかける。

「また、お会いしましょう。」

 

 騒めく市場を並んで歩く。一度は離したこの手が今、私の手を包んでいるのは、少し不思議だ。

「今日も一緒に来たのかい?仲睦まじいねぇ。」

 顔馴染みの店主が、袋に品物を詰めながら、そう言うと、彼は恥ずかしそうに頬を染めた。

「えぇ。私の大切な人ですもの。」

 受け取った袋は、するりと彼に取られて、その腕の中に収まる。ふわりと何かが通り過ぎ、その奥に赤と藍の頭が見えた気がして、立ち止まった。

「どうした、リリア。」

 覗き込んだ彼に、何でもないと首を横に振る。もう一度そちらを見ても、雑踏の中にあの見知った色を見つけることが出来なかった。

「きっと、また会えますわ。」

 再び歩き出した二人を、白く浮かんだ月が見守っていた。