徒然なる日々

るくりあが小説を載せたり舞台の感想を書いたりするもの。小説は文織詩生様【http://celestial-923.hatenablog.com/about】の創作をお借りしています。

夜を舐める Rewright

 

_____憧憬には、いつも君がいる。

 

「……ナルさん?」

 窓の外に浮かぶのは十六夜。隣で穏やかな寝息を立てていたはずの、あの人が大切にした幼子が、身体を起こしている。

「ごめん、起こしたか?」

 その子は少し口を開いた後、唇をほんの少し噛んだ。そして、俺の隣に座ると、軽いけれど確かな人の熱を持った身体を預けて、小さく息を吐く。

「ナルさんは、」

 ポツリと、夜の闇に言の葉が落ちた。太陽の下で見るよりも幾分か深みを増した翠の瞳が、俺を映す。

 瞳の中の俺は、この子の前で見せられないような情けない顔をしていた。瞳が揺れて、シーツの海へと逸らされる。

 小さな手が膝の上でぎゅっと握られた。

「……行っても良いんです。ナルさんが私といるのは、私の……わがまま、だから。」

 その子は困ったように眉尻を下げて笑う。その表情はあの人にそっくりなのに、何故か君を思い出した。無理をして笑っている、から。

「ふふ。皆には内緒ですよ。」

 あの人が照れ臭くなった時みたいに、また笑って、人差し指を唇に押し当てる。

 その子は、俺が咄嗟に伸ばした手に背を向けるように、布団に潜り込んでしまった。宙ぶらりんになった手を、そっと降ろす。

 震えていた小さな肩が、疲れたように静かになって、また穏やかに上下するまで、空から星の瞬きが消えて君の瞳の色に変わるまで、ただ、そこにいた。

 

 

「なぁ、ナルセ。」

 その人は、いつもの酒場でいつものように、氷をカラリと鳴らして言った。

「お前が、大切なもんを作ろうとしない理由。俺はある程度、分かってるつもりだ。」

 この人の言葉は、いつも俺の核心を突く。いや、そういうところがきっと、あの人を支えているのだろうけれど。

 だけどな、と琥珀色の液体に口をつけてから続ける。

「それじゃあ大切なもんを、その手から零すことだってある。零したものは戻らない。“覆水盆に返らず”だろう?」

「……そういうとこ、セージさんって意地悪いっすよね。」

 俺の返答に喉の奥で笑ったその人は、まぁ何が言いたいかって言うと、とその話を締めくくった。

「お前も大切なもんを作れ。この国に居続けるなら尚更な。」

 

 びゅうと冷たい風が吹いているが、どこか浮ついた雰囲気の街を並んで歩く。普段は憂鬱な雪すら、白い花のように感じられるのだから不思議だ。

「ナルさん。」

 ふわり、と白い息が広がる。俺の着ている薄青のコートの袖を掴んだ指先が、赤くなっていた。

「あの、ちょっとだけ見に行きませんか。」

 その子が示す方向には、広場の中央に飾られたクリスマスツリー。人だかりが出来ていて、この時期ならではの光景だな、と普段は足早に通る人々を思った。

「行こうか。」

 コクリと頷いて、ほんの少し口の端を緩ませる笑顔は、少しだけ君に似ている気がする。

 色鮮やかに飾り立てられた樅は、蝋燭が灯され、ゆらゆらと輝く。ふわりふわりと舞っている雪に、冷える前に帰ろうと促そうとしたその時、その子の名前が聞こえた。

「ルクリア!」

「あ、ニック。」

 親しげに返された愛称に、可笑しそうに笑う顔に、俺の知らない、その子の世界があることに気がつく。そして、同時にいつも自分の元へ帰ってきてくれていたあの子が、どこかへ巣立ってしまうのだと思い知らされた。

 楽しそうなあの子の姿に、先に帰っていよう、と思ってふらりと人混みを抜ける。さっきまで花弁のように感じていた雪が、今は重たく感じた。

 家が見えてきたところで、ふいに左手が掴まれる。驚いて振り向くと、そこには息を切らしたその子が立っていた。

「……な、なんで先に帰っちゃうんですか……⁉︎」

 尚も言い募ろうと口を開いて、唇を噛む。ぎゅうと力を入れられた手が温かい。

「……ごめん、リアが楽しそうにしてたから。余計な気を使っちゃったな。」

 その子はただ首を横に振ると、手を繋いだまま歩き出した。家に着いてからも終始無言だったが、寝ようとベッドを準備していたところで、枕を持ったその子が扉の前に立っているのに気がつく。

「どうした?……ははーん、ちっちゃい頃みたいに一緒に寝たくなったか〜?」

 からかって言ったつもりが、コクリと頷かれ閉口した。先に布団に入り、隣を叩くと猫のようにするりと潜り込む。夜、寝る前にだけ見ることのできる癖の少ない髪がベッドに広がった。

「おやすみ、リア。」

「……おやすみなさい、ナルさん。」

 灯りを消して、布団に潜り込む。幼い頃のようにこちらに抱きつくことはないけれど、俺が布団に入ったのを見届けてから、その子は目を閉じた。

 

 ふいにぱちりと目が覚める。隣を見やると、布団に膨らみがなく急激に目が冴えた。

 眠りにつく前よりも、1人分冷たくなったシーツに手をついて身体を起こし、ひたりと冷たい板張りの床に裸足の足を下ろす。手には今しがた自分に掛かっていた毛布を持って。

 リビングに面した大きな窓からは月明かりが差し込み、その姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。庭に植えられた薄紅の花を咲かせる木には、雪が薄らと積もっていて、空へと張り巡らされた枝は淋しく見える。

 風邪を引くぞ、と声をかけようとしたその時、緑色の瞳からぽとり、と光の粒が落ちていった。

 息を切らして駆けつけたあの夜も、あの人が土の下へと埋められたあの日も、決して泣くことのなかったこの子が泣いている。

 ギシリとどこかで音が鳴った。

 ぐいと寝巻きの袖でそれを拭ったその子が、こちらを振り返って笑う。あの人によく似た笑顔で、無理をする。

「ナルさん。」

 いつになったらこの子は、俺に傷を見せてくれるのだろうか。それとも俺は、それに値しない存在なのだろうか。

「リア、どうした?」

 細い肩にぱさりと毛布を掛けて、衝動のままにその身体をぎゅっと抱きしめる。俺より幾分小さな手が、背に回って、じわりと熱を感じた。肩口にある額がぐり、と押し付けられる。

「……ナルさん。」

「ん?」

 一緒にいて、と震えた声がくぐもって聞こえた。ぎゅう、と込められた力にその切実さが知れる。

 嗚呼、昔、夢を見ると言っていた。雪の中、自分を置いて行ってしまう両親。追いかけても追いかけても届かないその背を最後に、目が覚めると。

「……うん、いるよ。」

 ずっと、とは言ってあげられない。この子もそれを分かっている。それでも望むのはきっと、俺もこの子も、大切な人を失ってしまったからだ。

 

 

「……で?ナルセは何を悩んでるの?そんなの疑いようもないと思うけど。」

 目の前に座る男が、心底分からないという顔で、皿の上のケーキにフォークを突き立てた。

「いや、本当にそうなのかなって。ほ、ほら、リアってそういうところ鈍いしさ!」

 しどろもどろになった俺に、わざとらしいため息を吐いた男は、ビシリとフォークを突きつけてくる。

「あのさ、じゃあ聞くけど、ナルセが思うリアの理想の今後って何?」

「え、あ、うーん……。」

 あの子が、誰かを好きになって、愛されて、大切に思われて……幸せになってくれればそれで良い。失ったものの分だけ、いや、それ以上に幸せになってくれれば、それで。

「それってナルセじゃダメなの?」

 あっという間にケーキを食べ終えた男は、フォークをこちらに向けて上下に揺らした。

 でも、それはきっと俺じゃなくて……そう、この間の彼のようにあの子と同じぐらいの歳の……。

「ね、ナルセってリアのこと大事なんじゃないの?歳とか、周りのこととか、そういうの気にしないで守ってあげたい人なのかと思ってたけど。」

 違うの?と小首を傾げる。その言葉にハッとした。

 多分、俺は無意識のうちに臆病になっていたんだと思う。君を、守れなかったから。

「……そうだな。ありがとな、テオ。」

 大体さ〜、と男は呆れた顔で言う。

「ナルセは近くに居すぎて忘れてるのかもしれないけど、相手はリアだよ?」

 今度は俺が、心底分からないという顔をする番だった。それを見た男はまったくもう、と言いながらぐいと身を乗り出す。

「あのセージの娘で、あのフェンネルの姪で、グラフィアスの所属がほぼ決まってるような子が!なーんにも知らずに、ナルセの隣にいるとは思えないけど。」

 ナルセってそういうとこ鈍ちんだよね、と彼は面白そうに笑った。

 

 俺は、ちょっとばかり緊張していた。俺の隣に腰掛けたその子は、不思議そうにこちらを見る。

 窓から入り込んだ淡い光に照らされた瞳が、キラリと瞬き、さらりと赤い髪が落ちた。

「……リア。」

 情けなくも声が少し震える。少しだけハスキーなその子の声が応えた。

「俺は、リアのこと……守ってやりたいと思ってる。」

「もう、十分守ってもらってますよ。」

 ゆるりと目尻を下げたその子の肩に、そっと手を置く。伝わる熱は、確かにこの子が生きている証拠で、ここにいる証拠で。

「いや、その……リアのことを、大切に思ってる。これからも、隣にいても良いか……?」

 その子は驚いたように目を開いて、そしてゆっくりと閉じた。肩に置かれていた俺の手を握って、ゆっくりと降ろすと、揺れる瞳をこちらに向ける。

「本当に……?」

「ああ。」

 じわりと目の端に涙が溜まっていくのに、俺は慌てた。今まで、泣いたことのないこの子が、いや、本当はこの間のようにこっそりと泣いていたのかもしれないけれど、見せまいとしていた涙を、俺の前で零している。

「……私、怖いんです。また、いなくなるんじゃないかって。雪が降るたびに、そう、思って。だから「リア。」

 嗚咽を零すその子を、そっと抱きしめる。ベッドがギシリと音を立てた。

「……残念ながら、俺の方が随分歳上だから、きっとリアを置いて逝くと思う。でも、いつか来るその日まで、リアの隣にいたい。それじゃあ、ダメか?」

 首を横に振ったその子は、俺の寝巻きを掴んで震えている。整えようとしている呼吸が痛々しくて、そっと頭を撫でた。

 月が、窓から見える頃、そっと身体を離したその子が、こちらを見つめる。乱暴に拭おうとした手を止めて、そっと指先で粒を払ってやると、一呼吸置いて言った。

「……ナルさん。私、ナルさんがどんな人だって良いって思ってます。」

 真っ直ぐに俺を見るその目に、唇から紡がれた言葉に、俺は、息を呑む。

「私にとって大切なナルさんは、目の前にいる、小さい頃から一緒にいてくれたナルさんだから。」

 だから、とその子は笑った。泣き腫らした目で弧を描いて。

「これからも、一緒にいてください。」

 もう一度抱き寄せたその子は、おずおずと手を回すと、肩にそっと顔を埋める。柔らかな赤が首に触れてこそばゆい。

 バレないように小さな息を吐いて、敵わないな、と思う。あの人にも、あの人の大切なこの子にも。

「リア。」

 俺からは何もあげられないけれど。名前も、いつかの傷も話してあげられないけれど。それでもこれは、偽りじゃない。

____________。

 耳元で囁いた5音に、その子は嬉しそうに微笑んだ。