徒然なる日々

るくりあが小説を載せたり舞台の感想を書いたりするもの。小説は文織詩生様【http://celestial-923.hatenablog.com/about】の創作をお借りしています。

彼は誰に常世の花を抱く

 ―彼女は泣いた。言葉なんて要らないから、そばに居てくれ、と彼の骸を抱いて泣いていた。それがとても悲しく、そして羨ましくもあった。私には、私とともに歩み続けてくれる人はいないから。

 

 

彼女と出会い、彼の最期を見届けた時は彼女と行動を共にし、寿命をあまり削ることなく死んだ。

次は、彼と婚姻関係になったが、彼は私を護り、その命を落とした。その時、彼女は古本屋の養女であった。

その次は戦時中だった。彼女は私たちに国外へと出るように言ったが、私も彼もそれを望まなかった。私たちはそれぞれの戦場で死んだ。

常世が解体され、軍の特殊部隊、一〇五四隊として再編されると、彼女はいつもそこにいた。私と彼がそこに来るのを見越したように、彼女はいつもそこにいて、私と彼が人並みの幸せを享受すると、いつのまにかいなくなっているのだった。

私が全てを憶えている時も、そうでない時も、そして今も、彼女はずっと、私たちのために生き続けているのだと思う。

 

「久しぶりだな、アモウ。」

屈強そうな男たちに囲まれていた彼女に声を掛けると、不思議そうに振り返って、そして顔をほころばせた。

「お久しぶりです、シオさん。」

初めて出会った頃と変わらぬ姿はいつしか軍服を纏い、少女の顔には似つかわしくない、遠い日を懐かしむかのような表情が浮かんでいた。

彼女が周囲の男に下がるように言う。私は、彼らが声の届かない位置まで移動したのを見届けると、口を開いた。

「まだ、変わっていないんだな。」

「えぇ。ここのところ深窓の令嬢もびっくりの生活を送っていますからね。」

少し可笑しそうに、そして少し悲しそうに笑った彼女は初めて会った時、国に使われてたまるかと逃げ続けていたのだったと思い出す。私たちが生き、私たちが死を迎えてきた長い年月の間に、彼女の何かが変わってしまったのだろうか。

「……アモウが常世にいるのは慣れないな。」

私が上手く言えずに零した言葉に眉尻を下げながらそうですね、と彼女は頷いた。

廊下の窓枠に手をかけ、外を見つめる彼女の隣に立つと、緑の瞳が私を見上げた。

「でも、ここなら必ずお二人を探すことができますから。」

その言葉に喉が詰まって、私は何も言えなかった。

 

 アモウと二人で歩いていると後ろから肩を叩かれる。

「シオ。」

振り返れば、暁色の瞳が私を見つめていた。それに心が温まるのを感じる。私がこんな思いを抱くのは彼だけだ。

「……軍では話しかけるなと言っているだろう。」

心にもない言葉を言った私の本心を見透かしたように、笑って彼は言った。

「俺と知り合いだってバレると困るのか?」

「そういうわけではないが……!」

 そのやりとりにアモウがくすくすと笑い出す。それに私は軽く咳払いをして手で指し示した。

「ナル、紹介しよう。アモウ上官だ。」

そう言うと先ほどまでのやりとりが嘘のように真面目な雰囲気を纏ったナルミが敬礼をした。

「失礼いたしました。初めまして。私、ナルミと申します。」

「よろしくお願いします、ナルさん。」

愛称で呼ばれ、不思議そうな顔をする彼に、私がよく話していたからだ、と彼女は説明する。

本当は違うのだと言いたくならないのだろうか。彼とはもうずっと、ずっと前に出会っているというのに。

私など、彼からの“初めまして”をいつも残念に思ってしまうのに。

「シオさん。」

その声に思考の海から引き揚げられる。私が彼女に視線を向けるとふわりと微笑まれた。

「私は部屋に戻りますから、シオさんも今日は帰ってもらって大丈夫ですよ。」

少し顔を傾け、こちらを上目使いで見る様はいつもと、そして昔からずっと変わらぬもので。

「……はい、お言葉に甘えて。」

私は彼女についての思考に一旦蓋をした。

「なぁ、シオ。」

彼女の後ろ姿を見ていた彼が私を呼んだ。不思議そうに首を傾げている彼に問いかける。

「なんだ?」

「……上官と今日初めて会ったはずなのに俺……。」

続く言葉に私は目を見開いた。

「そうか。」

私が過去の記憶を持つように、彼にも過去の名残のような何かがあるのだと思った。それに少しだけ寂しさのような喜びが生まれる。

まだ考えているらしい彼の頭を叩き、歩き出す。

「行くぞ。」

嗚呼、彼女にも隣に居てくれる人がいれば、彼女も幸せになれるのに、と思った。

 

 

―縋るような瞳が忘れられない。

「それでも俺は、お前を護りたい。」 

 一度失った幸せを、私で埋め合わせようとするかのような彼を私自身が突き放したのだ。

そのはずなのに、彼との日々は記憶の中に鮮やかに残り、私は空虚な自分の隣を埋めるためにあの日の彼に縋ってばかりいる。

 

蝉の合唱で目を覚まし、いつまで経っても治らない癖毛と格闘していると、軍の内部にあるシオさんと数人しか知らない私室の扉をノックする音が聞こえた。

「はい。」

こんな朝に誰が来たのかと思いながら扉を開けると、そこにはゆったりとした民族衣装を身につけた長身の男が立っていた。

「お主がアモウかえ?」

「そうですが……。何か御用ですか?」

ほんに少女のようじゃと男は言うと、手を差し出した。

「わしは今日からお主の護衛を担当するリュウじゃ。よろしく頼むぞ。」

握ったその手は男性のものにしては細くて綺麗だったが、いくつもの胼胝を、巻かれた布の下に感じた。

満足げに頷いた彼は、まず手始めに朝の支度を手伝おうかのうといたずらっぽく言い、私の跳ねた髪に視線を流した。

「結構です!」

顔が熱くなるのを感じる。勢いよく扉を閉めると鈴のような笑い声が微かに聞こえた。布団に身体を投げ出し、恥ずかしさのあまり転がりまわる。そして、はたと気がついた。

「また、お別れする人が増えましたね……。」

嬉しいような、楽しいような気持ちが風船のように萎んで、一つため息を吐くと、身体を起こした。

彼が扉の向こうでようやく見つけたのぅと呟いていたことを知らずに。

 

「どこか行きたいところはあるかえ?」

私の護衛係になったという彼がそう言ったのは、手土産だと持って来てくれた大陸のお茶を飲んでいる時だった。

壁にもたれてこちらを見る彼に首を振る。

「……ここから出ることは許されていませんから。」

一〇五四、引いては軍、そして国という鳥籠に囚われた私に自由はない。いつの間にかここに居続けることが当たり前になりすぎてそんなことは考えもしなかった。

「出られるとしたら行きたいところがある、ということに聞こえるがのぅ?」

長い袖で口元を隠しクスクスと笑う彼の瞳は私に嘘をつくことを許さないような強い光を帯びていた。

「特に…思いつきません。」

「本当に?」

その瞳に射抜かれた私は考えざるを得なかった。どこへ。そういえば、ここに来て以来外に出たことがないのだからどこという場所が分からない。

「……じゃあ、リュウさんが街を案内して下さい。」

私がそう言うと、彼はにっこりと笑って私の前で膝をついた。

「御意。」

 

最後に身一つで外へ出たのはいつだっただろうか。軍服以外服がほとんどなかった私に、彼は少し悲しい光をその瞳に宿した。

「でも、どうして許可が……?」

重たく閉ざされた門の前でそう問うとリュウさんはその細い指を唇に当てて片目を瞑った。

不思議な人だとつくづく思う。そして、底が見えない。

ギギギと錆びついた音を立てて門が開いていく。この光景もずっと、ずっと馬車の中でしか見ていなかった。

「いってらっしゃいませ。」

門番に敬礼され頷いて外に出る。

整備された道路、洋風の建物、丈の短いワンピースを着た女性に、スーツを着こなす男性。目に飛び込んで来るすべてが極彩色に輝いている。もう、長いこと忘れていた、忘れようとしていた外の世界は活気に満ちていて、とても眩しかった。

「さて、行くかのぅ。」

立ち尽くす私に微笑んで、彼は私の手を引いた。

道中、あれこれ質問する私に彼は一つ一つ教えてくれる。よほど目を輝かせていたのだろうか、愛いのぅと小さな子どもに言うように言われて頬が火照った。

彼に連れられるまま綺麗な大通りから外れた小さな路地へと入る。洋風の小さな店には品の良い女性が1人いた。

「この子に服を。」

「かしこまりました。」

彼女は私のことを手招きするとたくさんの服の中からいくつか抜き取り、小さな小部屋へと案内した。

促されるがまま着替えて、彼女は首を傾げたり頷いたりしながら服を選んでくれる。

着せ替え人形のように取っ替え引っ替えされて、ようやく満面の笑みを浮かべたのは丸襟のワンピース。背中を押され、待っていた彼の元へ行くと、彼は笑った。

「よく似合っておる。ご婦人、このまま着て行くゆえ、荷物を包んでもらえるかのぅ?」

懐から風呂敷を出して彼女に渡すとすぐに着てきた服が包まれて戻ってきた。私が受け取ろうとすると、彼に遮られ、持たれてしまう。

にこやかに微笑んで出て行こうとする彼にお金は、と問うともう支払っていると言った。

「いくらですか?」

そう言うと、良い良いとはぐらかされてしまう。子ども扱いされているのだろうか。たしかに見た目は彼よりもずっと年下に見えるだろうが、そうではないのにと思っていると、通りの向こうから手を振る人が見えた。

「アモウ上官!」

「ナルさん。」

駆け寄って来た彼は奇遇ですねと笑った。その明るい笑みに自然と笑みがこぼれる。この人は、何度出会っても変わらない。だからこそ、ずっとあの頃の気持ちが残る。

「えぇ。ナルさんはお買い物ですか?」

そうですと頷いた彼は私の隣に立つ彼に気がついたらしく、少し警戒したように会釈した。数日前から護衛についてもらっている、と言うとようやく納得したようで、よろしくとお互いに手を握る。と、彼がそうだと思いついたように言った。

「今日はこの後、お暇ですか?」

それに頷くと彼は嬉しそうに笑って家に来ないかと言った。特に断る理由もなく、彼らの家へと招待されることとなった。

「アモウ。」

彼とともに家に入った私に黎明色の瞳を大きくした彼女が私の名前を呟く。そしてゆるりと緩んだ瞳が私を映した。

「いらっしゃい。よく来たな。」

「お邪魔します。」

出会った頃の荒んだ色ではなく、幸せの色が見え隠れする彼女に私は、あの日の選択は間違っていなかったのだと、私の生きている意味が分かったような、報われたような、そんな気がした。

 

 

ー見送って、見送って。もう一体何人見送ったのだろうか。

「どうしても思い出せないんだ。居たはずなのに、一等大切だったはずなのに。」

自分に課せられた愛する人と添い遂げることが出来ない罰。忘れてしまう罪。

「其方のことを永劫忘れることはない。」

言葉はなんて無力なのだろう。

 

リュウという男が彼女の護衛に就いて半年が経った頃、彼女が倒れた。

その日は珍しく特別な任務であったために、彼ではなく同じ隊の私が彼女の側にいた。

機密事項を持ち帰ろうとしたスパイの記憶を抹消すること。ほとんどない任務に彼女は久しぶりに駆り出されたと言った。

捕まえられ、縛られた男の額に彼女はそっと口付ける。何やら騒いでいた男の手が力なく垂れたところで彼女はこちらを振り返った。

「終わりました。」

私の隣に立っていた上官が頷く。ざっと4年ほどの記憶を奪われた男は服から荷物まで全てを回収され、そして軍から放り出しておくらしい。

「ご苦労だった。またよろしく頼む。」

敬礼し、上官を見送る。

私が最初に生まれた頃のような圧力は減ったが、稀人は軍に入ればその能力を支配されている。私は実戦向きな力であり、使えば使うだけその命を縮める。だからこそ本当の緊急事態以外は特別な任務を任されることはないが、彼女は違う。

彼女の記憶を操作する能力は有限ではあるが、無限に近い。彼女は操作した記憶の半分だけ、命を縮めるからだ。

「アモウ、私たちも帰……。」

私が声をかけたその時、彼女の身体が揺れて傾いだ。

「アモウ⁉︎」

慌てて抱きとめた身体は明らかに異常な熱を持っていた。顔を覗き込むと紙のように白く、額には脂汗が浮かんでいる。

何度も呼びかけると、苦しげに閉じられた瞼が震えて、焦点の合わない瞳が見えた。

いつものことだから軍医に見せる必要はない、部屋に戻ると言って身体を支える私の手を払おうとする彼女を有無を言わせず抱き上げて部屋へと運ぼうと部屋を出る。と、折良く小麦色の頭が見えた。

「ナルミ!」

「シオ?」

振り返った彼が私を見て慌ててこちらへ走ってくる。グッタリとした彼女を軽々と抱き上げると部屋へと急ぐ。

「ごめんなさい、シオさん、ナルさん……。」

掠れた声で謝る彼女に首を振る。ナルミは氷を取ってくると部屋を出て行った。

「理由は分かっているのか?」

「……少女の身体に、相当なおばあちゃんの精神ですから……。たかが二年とはいえ、急に歳をとると均衡が崩れるんです……。」

その均衡を戻す時に体調が崩れるようになったと彼女は言った。

「そうか……。」

彼女の手が私の頬に触れる。若く、匂い立つような美しさの中から、母親のような慈愛が溢れ出る。

「……シオさんのせいじゃないですよ。私が、望んだことです……。」

途方も無い時間の中で、彼女は私たちを見てきた。彼女には彼女が彼と幸せになるという選択肢はなかったのだろうか。

「アモウは……誰かと添い遂げる気はないのか?」

私の言葉に驚いたように目を大きくしたが、すぐに細められた。

「私は添い遂げることができないですから。」

彼女は自嘲するようにほんの少し口を緩ませた。その姿があまりにも小さく、幼く見えて私は彼女の赤い髪をそっと撫でた。

「シオ。」

呼びかけられて重たくなった空気が霧散する。氷を貰ってきたらしい彼が桶を持って立っていた。場所を変わると彼は手際よく彼女の額に布巾を乗せて額を冷やしてやった。

「今日はきちんと休んでくださいね?」

彼が彼女は頷いて怠そうに瞳を閉じた。寝息を立て始めたのを確認して帰ろうと椅子から立ち上がろうとした時、彼女が彼のシャツの裾を掴んでいるのに気がついた。

縋るようなその手に彼は悲しげに眉を下げた。そっと手を外して布団の中へ入れると共に部屋を出る。

「なぁ、シオ。」

玄関の扉が閉まった瞬間、道中無言だった彼は後ろから抱きしめて、問うた。

「あの子は、誰を求めてる?」

私も、そして彼女も痛いほどに分かっている。唯、それは私とそして、彼女の遠き日の選択に背くことになるのだ。だからこそ、二の句が告げなかった。

 

明けていく空、降り注ぐ紅色の淡雪。隣にいる彼が次に目を開けた時、彼は私たちに縛られずに生きていける。私のような彼と添い遂げられない人間とは無縁な存在となることを選択しておいて、胸が張り裂けそうだった。

後ろ髪を引かれる思いで、ゆっくりと立ち上がり振り返る。薄ぼんやりとした闇の中、彼の姿が霞む。

手を、伸ばした。

「アモウ!」

大きな手に届かないはずの手が握られている。霞んだ視界に二、三瞬きをした。

「……リュウ、さん……?」

「大丈夫かえ?」

深い色の瞳が覗き込んでくる。そこに映り込んだ私は、少し歳を取っていた。動揺を悟られないように頷くと彼は安堵の表情を浮かべ、少し起きれるかと聞いてきた。

ゆっくりと身体を起こすと差し出されたのは白湯。食欲はなかったが少しでもと口に含む。

「見ないうちに大人っぽくなったようじゃな。」

彼の言葉に心臓が跳ねる。平静を装ってそうですか?と問いかけるもその瞳は誤魔化すことを許さないというようにこちらに注がれていた。

体調が戻り次第、力を使わなければと思った。少しの悲しさと寂しさが胸をよぎる。

「……ちぃと、昔話をしようかの。」

ある、男の話じゃと彼は話し始めた。

 

その男は、とある国の皇子として生まれた。世継ぎとしてそれはそれは喜ばれたが、それ以上に喜ばれたのは男が神子であったことだった。

「男には自分が望むありとあらゆる薬を作る能力があった。命と引き換えにの。」

薬を作り、民を救えば救うほど神子は歳を取った。そしてある時、父に言われ不老不死の薬を作った。不老不死となればこの薬を作る力を永遠のものにできる、そうすれば自分の権力も永遠のものになる、と。

「男は幼心に思ったのじゃ。薬を作り続けることは民を救い続けることができる唯一の方法だとな。」

男は不老不死の薬を飲んだ。そして、

「天罰が降った。男はその才を失い、永い時を一人で生きねばならなくなったのじゃ。」

男は愛する人と添い遂げる術も、愛する人を病から、死から救う術もその手から落としてしまった。

「男の最初の妻は言った。笑って生きろと。ゆえに男はその妻の顔を忘れてしまった今も、どこかで笑って生きているのじゃ。」

「そう、ですか……。」

ま、御伽話にすぎんがのぅと笑う彼こそがその男なのだと察せられた。いつもその顔に笑みを絶やさないのは願いに縛られているから。あの日の選択に縛られた私と、同じ。

「その人は、寂しくなかったのでしょうか。」

ころりと零れ落ちた言葉に彼は片眉を上げた。一度零れた胸の内は止まらなくなる。

「……愛する人の死を何度も、何度も何度も見なければならない。だから私は……。」

愛する人が幸せになるように願い続けている、とな?」

弾かれたように彼の顔を見る。弧を描く綺麗な唇がゆっくりと開かれる。

「その幸いは本当に愛する人の幸いなのかの?否、それは分からぬ、わしにもお主にもな。唯、言えることとすればそれは。」

 

お主の幸せはどこにあるのかえ?

 

終を考えるようになった。

「アモウ上官!」

零れ桜の中、向こうから彼がやって来るのが見えた。手を振り返す。

「お疲れ様です。休憩ですか?」

私の問いに頷いて、隣良いですか?と聞いてきたので頷く。落ちて来る薄紅にあの日を思い出してなんだか懐かしくなる。遠い記憶になってしまっても変わらずに鮮明で、この淡雪が夢か現か分からなくなってきた。

柔らかな風にふと瞼を下ろそうとした時、手を掴まれた。

「す、すみません!」

驚いて横を見ると彼が慌てて謝ってくる。無意識だったのか。

「そ、そのアモウ上官が……消えてしまいそうな気がして……。」

おかしなことを言う人だと思う。くすくすと笑っていると彼は呆けたような顔をした。

「ナルさん?」

名前を呼ぶとはっとしたようにこちらに焦点を合わせる。そして、こう言った。

「やっぱり変ですね……。」

「変?」

彼はいつものような明るい笑顔ではなく、滲むように微笑んだ。

「……ずっと前から知っている気がするんです。上官のことを。」

憂いを帯びた表情に蘇る過去。走馬灯のようにそれが過ぎ去った時、私は笑った。精一杯の感謝と謝罪を込めて。

「気のせいですよ。きっとそれは」

そう、貴方が前に言ったように

「私とシオさんが似ているんじゃないですか?」

また私は優しい貴方に救われた、そして突き放した。

「そうか…。だから」

護りたいって思うのかな。

彼の言葉に微笑んだ。

 

上から上から花弁が降ってくる。薄紅の雨が寝転んだ私の顔に当たった。影が降りてくる。

「何を泣いているのじゃ?」

可愛い顔が台無しじゃ、と彼は長い袖で涙を拭ってくれる。次から次へと溢れるそれは袖を重たく濡らした。

桜吹雪と彼の長い髪が私を囲む。

「私だけがこの桜にずっと囚われているんです。私だけが進めない。」

そう言えば彼は心得たというように微笑んで私の顔を上から覗き込んだ。

「それなら、わしがお主をこの鳥籠から解き放しても良いのじゃが?」

藍色が桜吹雪を隠してしまう。それも良いかもしれない。

「連れて行って下さい。」

私は彼の首に手を伸ばす。彼に抱き起こされ、その綺麗な顔が目前に迫る。

「御意。」

 

彼女が家を訪ねて来たのは花散らしの雨が降った日だった。

「どうした、急に。」

「シオさん、その……。」

彼女は言いづらそうに目を逸らした。そして意を決したように顔を上げる。

「シオさんは、幸せですか?私は、貴女に幸せを押し付けてしまっていませんでしたか?」

初めて会った時とそう変わらない彼女は、あの頃から変わらず人のことばかりだ。そんなこと気にしなくてもいいのに。

「当たり前だろう。お前に言われたところで私が自分の意思を曲げるような奴か?」

そういうと、緑の瞳が蕩けて、そして抱きついて来た。軽く、細い身体を抱き締め返す。

「さよなら、シオさん。また、お会いする日まで。」

この子はやっと私たちから解放されて生きていけるらしい。それに一役かったのはきっとあの、突然現れた不思議な男。

「あぁ。幸せに、アモウ。」

「シオさんもですよ。」

彼女は照れ臭そうに笑った。

 

「アモウ上官!」

港へと向かう汽車に乗る直前の赤髪の少女に呼びかける。振り返った彼女は、彼に二言三言耳打ちされ、頷く。

「ナルさん、しーっですよ。」

彼女は指を当てて小首を傾げる。

彼女が居なくなったと大騒ぎになった軍で、こっそりと教えてくれたのだ。今日、出発だと。

「その、もう軍には?」

「えぇ。私の役目も終わりです。」

吹っ切れたような表情の彼女に何故だか胸が切なくなった。汽笛が五月晴れの空を切り裂く。錆びついた音が響き出して、彼女はタラップに飛び乗った。足がゆるゆると動き出す電車に合わせて身体を前に進めた。

「俺は、俺は!君のことを……!」

唇に、指が当たった。

「分かっています。今まで、ありがとうございました。」

ホームの端に辿り着く。彼女は離れる寸前、呟いた。

「さようなら、ナルさん。」

 

 

西の国に行った時、ある男に出会った。東から来る船に乗った客に一枚の写真を見せて人を探しているようだった。

「娘、だと思うんだ。」

その写真には確かに男によく似た娘が写っているように見えた。しかし、話を聞けば分からないのだと言う。

「思い出せないんだ。この子が居たこと。確かに大切だったはずなのに。」

だから、探してみようと思った。

忘れさせようとしたのに、忘れられることのなかった少女を。

 

窓から射し込む光に目を開けた。赤紫の光がその姿をぼんやりと見せている。

「XX。」

それは、少女の本当の名前。男がくれた写真の裏に書かれていたもの。

ゆっくりと振り返った少女は微笑んだ。今日は調子が良いのだろうか。身を起こして、外を眺めていた。

そっと抱き寄せると小さな手が両頬を包んだ。そして目を閉じる。

「いつの間にか、貴方の事を愛していました。」

花が綻ぶように笑う。艶やかな髪や鮮やかな瞳はとても彼女が病人だとは思わせない。

「ありがとうございます。私に幸せをくれて。」

人からすれば、悠久にも近い時を共に過ごした彼女がそう言った。そして額に口付けた。

「わしも、お主の事を好いておる。」

瞼が重くて目が開かなくなる。それでも、最後の気力を振り絞って言った。

ー愛しておるぞ、XX。

吐息に混じったそれは届いたのだろうか。

最後に見た彼女は微笑んでいた。

 

 

気がつくと寝台に横になっていた。はて、何をしていたのだったか。見回してみるも特に何もない。寝台の横の窓が換気のためか開いているが、一人で暮らすには少し広い平家があるだけだった。

今は此処に居を構えていたのだったかと思うも、痼りのようなものが胸に残る。とりあえず支度をして街へと出てみようと結い紐を手に取った時。

「む?」

左右の先の重さが違うことに気がついた。布の上から触ってみると何やら紙のようなものが入っているらしい。

小刀で縫い目を解き、中身を取り出してみる。

「……お主の考えなぞ、お見通しじゃ。」

 

窓から吹き込んだ風が男の長い髪を揺らした。