あの日から彼の様子が変だ。姿が見えないから、探しにいくといつも、遠くを見つめている。そして瞳を揺らがせて、半笑いでため息をつく。今日は中庭の芝生の上に座り込んでいた。
悩みの種は分かっている。でも、私には兄弟がいないし、この国で生まれて、この国で育ってきたからきっと、理解することはできない。だから、声をかけることさえためらって、開いた口を閉じてしまう。けれど、私にとって彼は大事な幼なじみで、仲間だから。
近づいていって、彼の後ろに座る。それでも気がつかないぐらい思考の海に沈んだ彼。少し腹立ち紛れに後頭部を背中に打ち付けてから寄りかかった。うわっと声が聞こえて、こちらを見ようと首を回してる気配を感じるけれど無視する。
「どうした?何かあったか?」
何かあったのはそっちじゃないと言いたいけれど、どうにもその後どうしたらいいのかわからなくて別に、と返してしまった。
こういう時、口下手な自分が嫌になる。もっと気の利いた言葉とか、そうじゃなければせめて、素直に言えたらいいのに。
「…私、変わらずにこの国にいる。」
うん、と彼が頷く。この国で生きていくよりも、きっと彼の国なら楽に生きられただろう。ガイラス卿が言ったように、私は何も知らずに、普通の女性としての道を歩んでいただろう。
「だから、」
でも、この道を選んだことを後悔してるわけじゃない。ここで私は皆と一緒に戦えることが、皆が変わらずここにいてくれることが嬉しい。
「だから…ローランくんもずっとここにいてくれるよね?」
ズルい聞き方だと、思った。彼は、もうあの国に戻ることはできないって、お兄さんと和解することはできないって分かってるのに、それでも、不安が拭えない。
「…当たり前じゃん。」
半身だけずらして、優しい彼はそう言ってくれた。
*
あの日から、気がつくとつい考えてしまっている。今日も中庭に座って空を見上げていた。自覚しているよりもずっと呆けていることが多いらしく、リアとマルセルによく心配される。
アランと会ってしまって、一方的に別れを突きつけられて、想像以上にショックを受けているらしい。
心の隅っこの方でアランなら分かってくれると、思っていたのかもしれない。いや、きっとそうでなくとも、話ぐらいは聞いてくれると思っていたんだ。
だから、あんな風に一方的に手を離されてとても悲しい。理解してもらえないことにほんの少しの苛立ちと悔しさが混ざってぐるぐると俺の中を回る。
次に会った時、アランと剣を交えることができるのかと、弱気な自分を嘲笑って息を吐いた。この国に来たこと全てを後悔しているわけではない。あの時、父さんに助けてもらって、そしてこの国に来たことが不幸だとも思わない。この国で俺は大切な仲間に出会えたことは事実だし、とても良くしてもらった。
だけど、それとこれとは別なのだ。家族が、 郷里が恋しくなったんだろう。
そんなことを考えていると背中に鈍い痛みがはしった。
「うわっ!」
そのまま体重をかけてくるそれを見ようと首を回す。チラリと見えた赤にリアかと思う。
「どうした?何かあったか?」
俺の問いに別にと素っ気なく応えた。身じろぎする音が聞こえて、サラリと落ちた髪の毛が背中に当たる感触がした。
「…私、変わらずこの国にいる。」
ほんの少しだけ、震えを含んだ声にうんと頷く。リアもきっと今回の潜入で思うことがあったんだろう。自分によく似た色を持つあの人に会ったと言っていたから。
「だから、」
言葉を探すように言葉が途切れ、沈黙があたりを支配する。
「だから…ローランくんもずっとここにいてくれるよね?」
その言葉にハッとする。リアはきっと敏感に感じ取っているのだろう。俺が自国に帰りたいと思ってしまったこと、アランに殺されることも悪くはないと考えていることを。
半身だけ彼女の身体からずらして、耳元にささやく。
「…当たり前じゃん。」
ぎゅっと胸が苦しくなった。どうかこの掠れてしまった声に気づかないでほしい。
*
あの日からふつふつと煮えたぎる怒りが抑えられない。あいつを見つけたのは本当に偶然だった。夕方の巡回の最中、ふと目に留まった男女がいたのだ。女の方は明るい赤髪を三つ編みしているのに、男の方は髪を短く揃えていた。若いのに珍しいな、と見遣ったその横顔は見間違えようがなかった。
戻ってきていたのかと思った。だが、そんなはずはない。あいつは黒に降ったのだから。意を決して、僕はそっと2人の後をつけ始めた。
しばらくすると女の方が何かを言って別れた。荷物を預けて行ったところを見るに何か買い忘れでもあったのだろうか。一対一の状況に好都合だと思う。
気づかれてしまったのか速度を上げて曲がり角を曲がったその姿を追う。しかし、その姿はすでにそこにはなかった。この道のどこかの路地を曲がったのだろう。
「ローラン。」
名前を呼んでカマをかけてみる。やはりどこかにいるのだろう、何かの気配がした。
「まだいるんだろう?そのままでいい、聞いてくれ。」
僕の半身に対する怒りが抑えきれずに沸き起こる。なぜ父さんが死ななければいけなかったのだろう。そして、なぜお前は黒に降ってのうのうと生きているのだろう。ギリと奥歯を噛みしめる。
「俺はお前を許さない。次に会う時は…容赦しない。」
踵を返し、路地から遠ざかり、任務へと戻る。だが、怒りは収まらない。それどころかあの日から日に日に増していくようだった。
僕は許せないのだ。僕より能力の劣るあいつが、潜入任務を任されているということが。あいつがこの国に残っていたとしたら、僕よりも上にいけたという事実さえもが。
だからこそ、黒に降ったお前を殺して僕は父さんに一歩でも近づく。そのためにどんな犠牲をも厭わない。たとえ父さんと母さんが悲しむとしても。僕は…俺は、お前を。
*
*
*
雨が降り続いていた。
バサリと濃い赤色の束が地面に落ち、ローランくんの顔に驚愕の色が広がる。
「父や母が悲しむから止めろと言っているならばナンセンスだ。俺は俺の意志でお前の前に立っている。」
一言も発さないローランくんを嘲るように笑って彼は言葉を続けた。
「残念な事に、父や母の悲しむ顔を思い浮かべて止められるほど俺は理性的でなくてな。個人的な、自分勝手な理由で貴様を殺めたい!」
パチパチと瞬きをしたローランくんの口がわななく。
「だ、だからって…髪を切ることは!」
「お前を背負ってやるという覚悟だ。」
長い髪が、彼の国では意味のあることだと知っていた。その髪を切るということは、つまり。
「俺は、お前という亡命者を倒した功績と、弟を殺したという罪を背負って上にいく。」
彼は徐に剣を構え直し、ローランくんを見つめた。剣の柄に手をやったまま動かないローランくんの姿に、私は腰の銃に手をやった。
「無粋な真似をするな。」
彼の深い赤が私を射抜く。
「私の大切な人をそう簡単に奪われるわけにはいかないんです。」
「いいんだ。」
一触即発の雰囲気を破るように発された言葉に視線を向ける。
「アランの本気は伝わった。…だから、俺も全力でいくよ。」
そういって彼は悲しそうに笑った。
人と人のつながりはどうしてこんなにももろいんだろう。どうして兄弟が、殺し合わなければいけないのだろう。
2人が剣を交える音が響き渡る。
空はまだ、2人を思って泣いていた。