徒然なる日々

るくりあが小説を載せたり舞台の感想を書いたりするもの。小説は文織詩生様【http://celestial-923.hatenablog.com/about】の創作をお借りしています。

金の花に盞を交わす

―貴方はまだ、知らない。

 私たちは本当の兄妹ではないということを、私が知っているということを。

 けれど、貴方がそう望むのなら、私はそれに従うだけ。だから、私は精一杯の笑顔を浮かべた。心が軋んだ音を立てるのを無視して。

 貴方が望むのなら、私は貴方の好きな笑顔をいくらでも浮かべることが出来るのだから。

 

 

 彼女から、会いに行くと連絡があった。

 初めて出会った頃よりも幼いその声は、嬉しそうに弾んでいて、こちらまで嬉しくなってしまった。

 私が、今も彼の側にいるように、彼女の側にもあの男がいるという。添い遂げられないからと、そう言いながら悲しそうに笑った彼女にもそういう人が現れたのだから、案外神様というのも悪い運命ばかりを与えるのではないのかもしれない。

 そう、考えることができるようになったぐらいには、この国も、世界も、変わったのだ。

 

「おはようございます、シオクラさん。」

 家の前を掃除していると、隣の家に住む少女が挨拶してきた。

「おはよう、リリア。これから買い物か?」

 えぇと彼女は頷く。天色の瞳と緩くウェーブのかかった鉛丹色の髪は、陽の光を受けて輝いていて、如何にも良家のお嬢様といった風だ。

「シオクラさんはなんだか嬉しそうですわ。何か良いことでもありましたの?」

 彼女に言われて顔を引き締めた。今朝、彼にも言われたばかりで、恥ずかしくなる。

「そ、そんなににやけているか?」

「いいえ。でも、雰囲気が柔らかいですわ。」

 私は咳払いをして、言った。

「古い友人が来る。……随分久しぶりに会うのでな。少し、楽しみなんだ。」

 彼女はまぁ!と言って微笑む。

 彼女からしたら永遠のような、随分古い友人だ。ずっとずっと、鳥籠に囚われていた彼女は、今の世の中が変わったことを嬉しく思っているだろうか。

「その方はシオクラさんと同じ稀人なんですの?」

 稀人は、人々に受け入れられ始めているのだから。

「リリア、まだここにいたのか。」

「お兄様。」

 家の中から彼女の兄が出てきた。萌葱色の瞳と深緋色の髪を持つ彼は、その髪を綺麗に纏め、いつも以上に整った格好をしている。こちらに会釈をすると、彼女の方を見遣った。

「では、いってくる。」

 いってらっしゃいませと見送った彼女の瞳が、悲しみの色を帯びている。私の視線に気がついた彼女は、眉尻を下げて笑った。

「お見合いなんですの。相手の方が、良い方だと良いのですが。」

 そう言って無理して笑う彼女に、いつかのあの子の姿が重なる。

「哀しいのか。」

 彼女は驚いたように目を見開くと、言った。

「たった一人の肉親ですから、寂しいのかもしれないですわ。」

 少し震えたその声に、気がつかないフリをして、そうかと答えた。

 

 家に入ると、彼が出かける支度をして待っていた。

「シオ、商店街に出かけるだろ?」

 暁の瞳が弓なりになって私を映す。初めて出会った彼と今まで出会った彼が、少しずつ違っていたとしても、これだけは変わることがない。

「あぁ。」

 彼には、あの子のことを稀人で、遠い親戚の子だと伝えた。私たちがもう何度も何度も出会い、そして幾度となく別れてきたことは言っていない。

 それは、私たち稀人だけが知っていれば良いことだから。

 外に出ると、持っていた買い物かごを持たれて手を繋がれた。普段なら振り払うところだが、今日に限っては悪くない。

「本当に楽しみなんだな。」

 そんなに表情に出ているのだろうか。こっそり頬をつねっていると、彼に笑われた。

 長く続いた世界大戦も、疲弊と、とある軍国の指導者暗殺によって収束を迎え、少しずつ平和な世の中が戻って来ている。市場は活気に溢れ、様々な品物が並んでいた。

「そういえば、その子はどこに住んでいるんだ?」

「今は西の大陸だ。連れの故郷らしい。」

 しばらく歩いた先にある魚屋で、煮付けにする魚の品定めをしていると、彼が小さく感嘆の声を上げる。

「どうした?」

「いや、綺麗な人たちだなぁって。」

 彼の指差す先には、異国の服を纏った幼子と青年。中性的な青年と、幼子でありながら、不思議な艶を持った少女は、極彩色の市場でも、一際目を引いていた。

 青年に片腕で抱かれている幼子の、緑色の瞳が私たちを映す。幼子が青年の肩を叩くと、彼らは私たちの方へ向かってきた。

「久しぶりだな、アモウ、リュウ。」

「お久しぶりです、シオさん。」

 彼女が嬉しそうに微笑む。私も自然と笑顔になった。惚けたように二人を見ている彼に向き直って言う。

「紹介しよう、アモウと保護者のリュウだ。」

 彼は、はっとすると、すぐに頭を下げた。

「はじめまして、ナルミと言います。」

 このやり取りも何度目だろうか。それでも私たちは、飽きずに繰り返す。愛しい人に、出逢うために。

「はじめまして、ナルさん。」

 あの頃とは違う、幼い大きな緑の瞳に、彼の姿がまた、映し出された。

 

 

―もう泣かないと決めたから。

 この心に永遠の蓋をして、貴方の幸せを願う時、私はちゃんと笑えていましたか。私は、貴方と貴方の選んだ人を祝福できていましたか。

 貴方の記憶に残る私が、貴方の好きな私であるようにと願って、貴方のことを愛してしまった私は、眠りについた。

 

 稀人。

 人々の中にごく少ない割合で現れる、神話の世界の、神のような力を持った人のことで、その能力、寿命は様々である。彼らの存在は、ほんの数十年前まで秘匿されていたが、ある国がその存在を発表したことにより、私たちの暮らすこの国でも、永く虐げられていた彼らが認められることとなった。

「こんにちは。」

 目の前に立つ彼女の背に合わせて、しゃがんでそう言うと、彼女は少し困ったように笑って言った。

「こんにちは。はじめまして。」

「シオクラさんが古い友人とおっしゃっていましたから、どんな方が来られるのかと思っていたら、可愛らしい方で驚きましたわ。」

 私がそう言うと、黎明色の瞳をしたその人はくつくつと笑った。その様子を見ていた彼女は口を尖らせる。

「リリア、この子はアモウ。こう見えて君より年上なんだ。」

 私が目を瞬かせていると、彼女を見上げていたその子は私を見て恥ずかしそうに頬を染めて、ふわりと大きな袖で顔を隠してしまう。

「リリアさん……そんなに見つめないでもらえますか?」

 言われてようやく、自分がずっと見てしまっていたことに気がついた。謝ろうとした時、彼女の後ろに人が現れて、あっという間に抱きかかえられてしまった。

「愛いのじゃから致し方ないであろう?」

 藍色の髪を長く伸ばした男は、私に同意を求めるように首を傾げる。

「えぇ。本当に可愛らしいですわ。」

「……リュウさんはそればかり。」

 完全に拗ねてしまったのか横を向いてしまった彼女を見て、シオクラさんは可笑しそうに笑った。

「リリア、こっちは保護者のリュウだ。」

「よろしく頼むぞ。」

 艶やかに微笑んだ男性は、握手をすると降ろしてくれと言っている少女を宥め出す。その様子を笑って見ていた彼女の肩をつつく。

「あの、男性の方も稀人ですの?」

 すると彼女は少し考えたあと、こう言った。

「……いや。私もあまり詳しく知らないんだ。本人に聞いてみると良い。」

 立て板に水の彼に、諦めたらしい少女はむくれたまま大人しくしている。それを愛おしそうに見つめる彼をじっと見ていると、こちらに気がついたのか目を細めた。

「リリア。」

 私が背にしていた道から帰って来た人が、私を呼ぶ。

「お兄様、おかえりなさいませ。」

「ただいま。……そちらの方は?」

 異国の服を纏った2人は目立つのだろう。彼らを訝しげに見てそう言った。

「紹介しますわ。シオクラさんのご友人のリュウさんとアモウさん。こちらは兄のガイラス。」

「しばらく世話になる故、よろしく頼む。」

 その人は、そう言って微笑む彼に会釈すると、家に入ってしまう。

「……今日も見合いか?」

「えぇ。お相手の方が良い方で、近々ご両親に改めてご挨拶に行くそうですわ。今日はお二人でお出かけに。」

 そう言いながら、胸がぎゅっと締め付けられる。でも、彼が望んだことだから。

「上手くいきそうで、私もほっとしていますわ。」

 彼女は少し悲しそうな顔をすると、そうだなと頷いた。そんな私たちの様子を、少女がじっと見ていたことなど露ほども知らずに。

 

 その手は、私のものだと思っていた。幼い頃から私の手に重なる綺麗で、大きな手が、私の思う形で重なることは、もうきっとないのだろう。私が彼に想いを告げた日から、これからもずっと。

 忘れもしないあの日は、淡雪のように桃色が舞っていた。私は高等学校の卒業式のその日に、一世一代の告白をした。

 兄が、好きだと。

「それは、勘違いだリリア。親愛と恋愛は違う。」

 彼は驚いた顔をした後、そう言って私を諭す。私のうるさいほど脈打っていた心臓は、ゆっくりと落ち着いて、そして胸が詰まった。

「……違いますわ。私は……!」

 私は、次の言葉を紡ぐことが出来なかった。彼はとても、とても悲しい顔をしていたから。

「……お前の気持ちには答えられない。なぜなら、俺たちは兄妹だからだ。」

 貴方がそれを望むなら。それなら、私は……。

「リリアさん?」

 下から聞こえた声に、急激に周りの音が戻ってくる。声の方向を見ると、鼻を赤くした少女がこちらを心配そうに見ていた。

「あら、アモウさん。」

「大丈夫ですか?あまりにも、うわの空でお掃除なさってるので、つい……。」

 話すたびに小さな口から吐き出される息が白い。寒そうな彼女に、羽織っていたカーディガンを肩に掛けようと、身長に合わせて屈む。すると、小さな掌が私の頬を覆った。

「何か悩みごとがあるんですね?」

 冷たく冷え切ってしまった、私の心のような空気に、甘く暖かな香りが混ざる。その香りに、何故だか無性に泣きたくなった。

「私で良ければ聞きますよ。」

 薄桃の唇が弧を描く。私は、その小さな少女を家へと招いた。

「散らかっていてすみません。今、お茶を淹れますわ。」

「お構いなく。」

 ソファにちょこんと腰掛けた彼女は、確かに見た目にそぐわぬ落ち着きと包容力を持っているように感じる。牛乳で煮出した紅茶を出せば、礼を言われた。

 無言の空間に彼女が息を吹きかける音が響く。いざ話そうとすると、尻込んでしまう私を見兼ねてか、彼女が先に口を開いた。

「リリアさんから見て、私とリュウさんはどう見えます?」

 突飛な質問に、私は考えを止める。彼女は何でもないように小首を傾げていた。彼女と、あの中性的な彼の関係。

「……親子ではないのです?」

 似ていないな、とは思う。だけれども、私は隣に住むあの人から、彼は保護者であると聞いていた。

 その言葉を聞いて、彼女はころころと笑う。

「違う、と言ったらどうですか?」

「え……。」

 言葉に詰まった私に、彼女は一口紅茶を飲むと言った。

「私たちは、関係性を言葉や法律上の関係で理解しています。他者からの言葉、戸籍……仮にそれが、真の関係とは違ったとしても。」

 そうでしょう?と微笑む彼女に、私はゆっくりと口を開く。まだ、誰にも話したことのない胸の内を、この不思議な、そして的確に私の心を言い当てた少女に、吐露してしまおうと思った。

「……兄が、結婚することになりました。」

 彼女はソーサーにカップを置くと、話の先を促すように頷く。

「私は……。私は、お兄様が幸せであればそれでいいと、お兄様が望むなら、私はずっとお兄様の望む関係でいようと、そう、思っていましたの。」

 ほろりと溢れた滴のせいか、堰を切ったように私は彼女に話し続けた。兄に持ってしまった感情、血の繋がりのない私と兄の関係、そして、辛い胸の内を。

「お兄様に結婚を告げられた時、私は心にもない祝いの言葉を言いましたわ。そうすると、お兄様は……ほっとしたようにありがとう、と。」

 いつのまにか、私の涙を拭い、背中を優しく撫でる彼女は、慈愛に満ちた顔で何度も頷いた。

「辛かったですね。」

 他人に話してしまうと、なんて心が軽くなるんだろう。散々泣いて落ち着いた頃、扉が叩かれる音が響いた。

「お兄様かしら。」

 扉を開けると、ふわりと甘い香りがして藍色の髪がさらりと舞った。

「こんばんは。アモウは来ておるかのう?」

「えぇ。」

 私が呼ぶと軽い足音が聞こえて、彼女が奥から顔を覗かせる。すると、紅がさされた彼の目元が緩められ、男性にしては細くて綺麗な手が、たおやかに彼女を招いた。

「用は済んだかえ?そろそろ夕飯時じゃ。」

 その言葉に彼女が私を見上げたので、大丈夫だと微笑んでみせる。彼に抱き上げられた彼女は、私と同じ目線になると目を合わせてこう言った。

「私が、どちらかの記憶を消してあげましょうか?」

 彼女は、幼い少女の姿に似つかわしくないほど艶やかな笑みを浮かべる。

 どちらかの記憶を消す。それはつまり、私か兄の記憶を消して、今の関係を、感情を、無かったことにするということだろうか。

「それは……。」

「辛いのならそういう選択肢もある、ということです。考えてみてください。」

 扉がパタリと閉まる。残されたのは、立ち尽くしたままの私と、甘く香る匂いだった。

 

「夕飯は済ませてくる。」

「はい、いってらっしゃいませ。」

 お兄様は、今日もあの人と出かけるのだろう。まだ、写真でしか見たことのない、美しくて意志の強そうな瞳をした、素敵な女性と。

 白い息が、青い空に立ち上って消えてゆく。こんな風に、私の思いが簡単に消えたなら。こんなに苦しむこともないのに。

 それをぼんやりと眺めていて、私は近づいてくる人に気がつかなかった。

フローレスくん。」

「……え、まぁ!教授!」

 私の肩を叩いたのは、所属する研究室の教授で、慌てて頭を下げる。

「隣、良いかな?」

 にこやかに微笑む彼は、頷いた私の隣に腰掛けると研究材料なのだろうか、古めかしい手帳を読み始めた。

「そういえば、シオクラさんのお友だちとはもう会ったのかい?」

「えぇ。小さくて可愛らしい方ですわ。」

 彼は読み物をする時にかけている眼鏡を押し上げると、その奥の瞳を輝かせてこちらを見る。

「それは幼い稀人なのかい!?それとも幼い姿でずっと過ごしている!?いや、それよりも会いたい!是非会って話をさせて欲しい!!」

 一気に捲し立てた彼に、私は苦笑する。普段は穏やかで優しい人なのだが、稀人のこととなるとこうだ。でも、そんな彼を見ていると、鬱々とした気分が晴れる気がする。

「幼い姿、なのだと思いますわ。会ってくれるかは……聞いてみないと分からないですけれど。話してみますわね。」

 苦笑した私に気がつかずに、頼んだよと、女学生たちに人気の優しい笑顔を浮かべた彼は、なおも話し続ける。基本的に良い人なのだ。話は長いけれど。

「講義でも話したけれど、稀人には二つのパターンが存在することが分かっているんだ。Ⅰ型は私たちと同じように歳を取り、Ⅱ型はそうではない。彼女が、今までどのぐらい生きてきたかは分からないけれど、きっと……。」

 彼はそこで言葉を切る。彼の手帳を冷たい風が捲って、バラバラと音を立てた。

「ときにフローレス君。君は人を愛したことがあるかい?」

 思いもしないところから、私の悩みに切り込んできて、動揺する。こちらを見ている彼にそんなつもりはないのだろうけれど。

「えぇ。」

 彼は頷くと指を一本立てた。

「想像してみて欲しい。君は病に侵されてしまった。」

 絶対に治らず、命は短いんだ、と彼は付け加える。

「けれど、愛する人はずっと側にいると言ってくれる。さて、君ならどうする?」

 私なら、どうするだろう。少しでも長く彼と共にありたいと思うだろうか。

 嗚呼、きっと彼は私が望めばそうしてくれるに違いない。けれど

「……私なら、忘れてくれと。私にとっての一番大切なことは、愛した人が幸せになることですから。」

「きっと、稀人たちも同じ選択を迫られたと思うよ。」

 彼の左右に流された髪が一房、傾けた顔とともにはらりと額に落ちた。彼は徐に手帳に目を落とし、その文字をそっと指で撫ぜる。

「Ⅰ型の稀人は自分の短い命、そしてⅡ型の稀人は他人の短い命に。愛する人と共にいられないことは、同じだから。」

 だから彼女は、私にあえてあんなことを言ったのだろうか。自分が選べない何かを、選び取って欲しいから。

「そうですわ。彼女、教授と同じような髪色なんですの。もしかしたら、」

「故郷が同じということかい!?ますます会いたい!」

 どこまでも研究熱心な彼に、笑みが溢れる。彼女に、伝えよう。なるべく早く。

 私はそっと、息を吐き出した。

 

 その日、彼に強請って街まで出かけた。彼に似合うかを聞きながら服を買って、洋食店でお昼ご飯を食べる。他愛もない話を沢山して、笑って、揶揄われて少し怒って。

 そして、帰路についた。

「お兄様。今日はありがとうございました。」

「いや、構わない。だが、急に言い出したから驚いた。」

 夕暮れが、少し遅くなったと感じる。橙と薄紫の混ざった空から零れる光が、私たちの前に仲睦まじく伸びる影を作っていた。ゆらりゆらりと揺れるそれは、くっついたり離れたりを繰り返している。未だ揺れる心のように。

「ふふ。妹の私が、お兄様を独り占めできなくなるんですから、許して欲しいですわ。」

「……そうだな。」

 ほんの少し躊躇いながら、彼は私の頭を撫ぜる。嗚呼、もうすぐ、この幸せな時間も終わるのだ。

「お兄様、ご結婚おめでとうございます。」

「突然だな。まだ挨拶には行ってないんだ。気が早い。」

 彼は、私の言葉に困ったように笑ってそう言った。胸の痛みを無視して、私は笑う。

 貴方の記憶の中の私が、貴方の好きな私であるようにと。

「私は、お兄様の幸せをずっと、変わらず祈っていますのよ?」

「……ありがとう、リリア。」

 はにかむ貴方に頷いてみせて、私はこの心に蓋をする。そして、永遠に外れない鍵をかけてもらうのだ。

 彼女が指定したのは、商店街のはずれにある、幼い頃、彼とよく遊んだ公園だった。そこを通りかかると、紅色の花を咲かせる木の下に、二人は立っている。散る花弁は、彼女と藍色の彼を覆って、まるでこちら側とそちら側が違うような、そんな気持ちにさせた。

「あれは……隣の家の客人か?」

「えぇ、少しお話してきますわ。」

 それなら先に帰っていよう、と私の持っていた荷物を持ってくれる。

「ありがとうございます。」

「またあとで。」

 家へと向かう彼の後ろ姿に、そっと呟いた。今の私が貴方に会うことは、もう、ない。

「さようなら。……愛していましたの、お兄様。」

 私は踵を返すと、公園の奥へと向かう。近づくにつれて木の下には、少女と青年と、そして彼女がいることが分かった。

 私が立ち止まると、彼女が口を開く。

「覚悟は、決まったか?」

 黎明色の瞳が私を写す。私は、ゆっくりと首を縦に振った。

「では問おう。」

 風が私たちの髪と花弁を巻き上げる。
「お前が望む幸せの形は何だ?」

 三対の瞳がこちらに向けられる。私は、痛む胸と、それで良いのかと問いかける自分の心を無視して、言葉を紡いだ。

「私の記憶を……消してくださいませ。」

 沈黙が辺りを支配する。私は不安になって、さらに言葉を続けた。

「あ、あの、馬鹿な選択だって分かっています!それに、アモウさんの命を縮めることにもなりますし。その……私は、わがままですね……。」

 よく考えてみたら、なんて自分勝手な願いなのだろうと思う。他人を犠牲にして、自分の願いを叶えようなんて。

 すると、藍色の彼は首を横に振る。

「それがお主の選択なら否定せん。それ以前に、この子が言い出したことじゃからのう。」

 そう言って彼は赤い髪を優しく撫ぜ、相対した私の本心を探るかのように視線を向けた。

「後悔はありませんか?」

「はい。」

 少女の問いに私は是と返す。少女は頷くと、承知しておいて欲しいことがあると言った。

「記憶を完全に、まっさらに消すことはできません。何かの拍子に思い出すことも、違和感を感じることも、記録として見てしまうこともあります。」

 少女は困ったように眉尻を下げて笑う。

「見てしまいそうなものは、全て片付けて来ましたわ。」

 私が微笑んで見せると、彼女もつられたように少し笑った。

「それよりも……歳を取ると聞きました。良いんですの?」

「えぇ。リリアさんをだしにして、というわけではありませんが、この身体、不便なんですよ。」

 手が届かないところがたくさん、と少し拗ねたように言うのが可愛らしくて、私はつい声をたてて笑ってしまう。

「わしは気に入っておるのじゃが……。」

「本当に、リュウさんはそればかり……。私が幼いと出来ないこともあるでしょう?」

 そう言って彼を見上げた彼女が、急に大人の女性に見えて、私は顔が火照るのを感じた。

 そこではたと気がつく。あの日の甘い匂いは、二人とも同じだったと。

「リリア。」

 背の高い彼女に、名前を呼ばれてはっとする。彼女はこちらをしっかりと見ると、良いんだな?と聞いた。

「えぇ。兄のことをよろしくお願いします。」

 私が言うと、ゆっくりと頷いてくれる。少女が近づいてきて、私に手を伸ばしたので、少し屈んで顔を近づけた。

 そっと瞳を閉じる前に見えたのは、夕陽に照らされた赤い月と、舞う少女の同じ色。

「リリアさんの気持ち、記憶と共に私が預かっておきます。……幸せになれますよう。」

 小さな手が頬に添えられる。

ふわりと香る甘い匂いと共に、そっと。少女の唇が額に、触れた。

 

 

ー分かっていた。

 ただ、見ないふりをしていただけだと。何故なら君にそれを告げられた時、胸が高鳴った。

 けれど、冷静な自分がささやいた。

 お前は兄だろう?と。

 だから、見えないようにそっと、心の奥底に、本当を仕舞い込んだのだ。

 

 公園で寝てしまったと告げられた時。嗚呼、懐かしいなと思った。

 幼い頃のように、遊び疲れてしまったのかと、いつまでも妹は妹のままだなと、背中の温もりにそう思っていた。

「……誰?」

 次の日。起きてこない彼女を心配して起こしに行くと、寝台の上で所在無さげに身を起こし、そう言ったのだ。

「リリア、何の冗談だ。」

「……リリア。それが私の名前?」

 俺が愛して、愛していたからこそ関係を守りたかった彼女は、妹ですらなくなってしまった。

「いってきます、お兄様。」

「……いってらっしゃい。」

 蝉の鳴く、まぶしい通りへ出ていく彼女を手を振って見送る。

 あの後、彼女を医者に見せたところ、記憶の全てを失っている訳ではないという診断だった。

 自分のことと、人間関係やそれに付随する、所謂“思い出”と呼ぶものがすっぽりと抜け落ちているだけで、勉強や社会常識、そういったものの記憶はあると。

 そのおかげで、彼女は新学期に間に合うように大学へ通うことができ、記憶を失ったことも学友や教授が受け入れてくれた。

「結果的に、良かったはずだ。」

 見合い相手に会いに行くと告げるたび、悲しそうな顔をする彼女を、無理して祝いの言葉をくれる彼女を、もう見なくて良い。むしろ正しい兄妹に戻った。唯、それだけのはずだ。

 それなのに、彼女を見る度に痛むこの胸は何なのだろうか。

 気分を変えてたまには出かけよう、と読みかけの本を持って照り付ける太陽の下、行きつけのカフェへ向かう。通りを歩いていると、前から来た見覚えのある人と目が合った。

「ガイラス殿じゃったかの?」

「えぇ。……リュウさん、ですよね。」

 よく覚えておったのう!と嬉しそうな彼の手には食材の入った袋がいくつか抱かれている。

「買い物ですか?お子さんの姿がないようですが……。」

 彼はほんの少し口を開けて固まった後、長い袖で口元を覆った。何故かほんの少し肩が震えている。

「アモウのことかえ?今は療養中じゃ。」

 少し体調が優れなくての、と彼は眉を下げた。そうであれば、こんな所で引き留めてしまっては申し訳ないと、別れの言葉を伝えると、彼の声が背中から聞こえる。

「お主はそれで良かったのかえ?」

 何を言っているのか分からずに振り返ると彼は、艶やかな唇で弧を描いていた。

「……何をおっしゃりたいのです?」

 逸らされない藍色は、俺の奥底の気持ちすら見ているようで、居心地が悪い。

「リリア嬢のことで悩んでいるのであれば、ヒースコート教授を訪ねてみると良い。」

 これ以上は別料金じゃ、と唇に人差し指を当てた彼は、藍色で弧を描いて去っていく。残された俺は、読む気を無くしてしまった本を握りしめるだけだった。

 

 

 藍色の彼の質問の意図はなにか。答えは出ないまま教授に会う日となり、彼女の通う大學校の門をくぐる。彼の研究室は職員棟の3階で、ドアにはHeathcoatと書かれたプレートが下げてあった。

 ノックをすると、どうぞという声が聞こえ、ドアを開く。そこは想像していた教授という職業の人の部屋よりも幾分綺麗で広く、本棚の間にはソファとローテーブルの置かれた場所があった。

 先客がいたようで、室内は紅茶の香りが漂い、教授の彼以外に異国の服を纏った少女が1人、座っている。

「はじめましてフローレスさん。ロナルド・ヒースコートと申します。」

「はじめまして。お時間いただきありがとうございます。」

 彼はにこりと笑うと、身体をずらした。その後ろには、先ほどまで座っていた少女が立っている。

「こんにちは、ガイラスさん。」

「君は……?」

 どこかで会ったのか、少女ははじめましてとは言わなかった。齢は女学生の頃か、大學校の生徒にしては少し幼く見える。

「アモウくん、会ったことがあると言っていなかったかい?」

「えぇ。でも、この姿では初めてですから。」

 彼は目の前の少女を“アモウ”と呼んだ。自分の知っているアモウは、あのリュウという男に抱かれた幼な子だ。そんなはずはないが、思い当たる節があり、口を開く。

「もしや君も、稀人……。」

 少女は何も言わずに艶やかに微笑んだ。彼にどうぞ座って、と言われて自分がぼぅっと立っていたことに気がつく。ベロア生地の座面に座ると、向かいに少女、その隣に彼が座った。

「さて、フローレスさん、今日はどのような御用件で。」

 彼はティーポットから紅茶を注いで出してくれる。紅い水面に映る自分は、なんとも情けない顔をしていた。

「リリアのことで……。その、妹は、どうですか?」

 彼はカップをソーサーに置いて頷く。金縁の眼鏡を押し上げると彼は微笑んだ。

「何も問題なく。彼女は優秀ですね。学生生活という意味では、まだ少し慣れるまでに時間がかかるかもしれませんが。」

 ゼミに入る際の小論文もよく書けていましたよ、と彼は机に積まれた資料の中から紙の束を出してくれる。そこには彼女の字で『稀人への偏見とその歴史について』と書かれていた。

「妹は……稀人の研究をしているんですね。」

 彼は首を縦に振る。少女は、我関せずといった様子でテーブルの上のお茶菓子を取って口に運んだ。

「知り合いに稀人がいて、もっと知りたいと思った、そう言っていましたよ。だから僕のゼミがあるこの大學校に入ったとも。」

 どうしてこの学校を選んだのか、そんな些細なことすら知らなかった。あの日以来、無意識に会話をすることを避けていたのかもしれない。

「……そうですか。」

 沈黙があたりを支配する。開かれた窓からは、湿った風が雨の匂いを運んできて、夕立が来ることを伝えていた。

「一雨来そうですね。」

 彼は窓の外を見てそう言うと、落ちていた前髪を払う。意を決して、息を吸った。

「ヒースコート教授、リリアの記憶に関して何か知っていらっしゃいますか。どんな些細なことでも良いんです。」

 分からなかった。だから、彼の助言通り1番聞きたいことをこの人に聞いてみるべきだと思ったのだ。俺が深く考えて答えが出るのなら、とっくに出ているだろうと。

「なるほど。」

 答えたのは彼ではなく、隣に座っていた少女だった。彼女は持っていたカップをテーブルに置くと口を開く。

「貴方はリリアさんのことになると、とても臆病になる。」

 鈴を転がすように笑った少女の孔雀色の瞳が、こちらを見た。

「私がリリアさんの記憶を消したんです。」

「っなん、だと……?」

 アモウくん!と嗜めた彼の声を無視して、少女は言葉を続ける。

「聞こえなかったですか?私が、リリアさんの記憶を奪ったんですよ。」

 立ち上がり、少女の胸ぐらを掴む。顔色ひとつ変えない少女は、こちらを冷たい瞳で見た。

止めようとした彼を少女が制す。

「……戻せ。リリアの記憶を。」

「無理な相談です。」

 ギリギリと掴んだ布が嫌な音を立てた。手首を存外力強く少女が掴む。

「今のリリアさんは、貴方の望んだ、妹の、リリアさんでしょう?」

 少女は、俺の心の奥の、奥に隠した部分を的確についた。頭が真っ白になって、掴んでいた手から力が抜ける。少女はシワの寄ったシルクを戻すように撫で、少し頭を冷やしてきます、と部屋を出て行った。

 力が抜けたように腰を下ろすと、心配そうに見ていた彼が、悲しそうに微笑む。

「……許してあげて下さい。彼女は生半可な気持ちでフローレスくんの記憶を消したわけじゃないんですよ。」

 彼は立ち上がると水を沸かすために卓上コンロの火を付けた。しばらくするとくつくつと沸騰する音が聞こえ、注ぎ口からは湯気が出始める。

「まるで神じゃないか。人の記憶を操作出来るなんて……。」

「それは違います。」

 俺の言葉に、彼はきっぱりと否定の言葉を口にした。視線を向けると、彼は薬缶からティーポットへとお湯を注いでいる。ティージーを被せた彼と目があった。

「彼女たち稀人は、対価を払って初めて力が使えます。決して、神のように万能ではない。」

「……それでも、あの子がリリアの記憶を奪ったという事実は変わらない。」

 眼鏡の奥で葡萄色の瞳が細められる。彼はアモウくんは、と口火を切った。

「彼女は、確かにフローレスくんの記憶を消した。その選択肢を与えてしまった。でも、それを選んだのは、紛れもなくフローレスくんです。」

 沈黙が降りる。少女が無理矢理彼女の記憶を奪ったわけではないのは分かっていた。けれど、少女が増やした“無かったことにする”という選択肢を、俺は選んで欲しくなかったのだ。

「……リリアは、全て忘れたかったのでしょうか。」

 ポツリと零した声に、彼は眉を下げる。パチリと懐中時計を閉じた彼が、ティーポットから紅茶を注ぎ、カップを目の前に置いた。

「答えになるかは分かりませんが、一つ昔話をしましょうか。」

 稀人が軍に管理されていた頃、施設で働いていた軍人の手記に載っていたものです、と彼は古びた手帳を取り出すと、話始める。

「ある日、軍から脱走した男が何故か戻ってきた。その男は記憶の全てを失っていた。既知だったこの手記の男性には、彼が変わってしまったように感じた、と。」

「今のリリアと同じ……。」

 ぽつりと零した言葉に、彼はそうですねと頷いた。

「そして、こうも書かれています。けれどそれは、彼がまっさらな赤ん坊のようになっただけで、彼の生来の姿は今の彼なのだろう。とね。」

 私の個人的な意見ではありますが、と前置きをして彼は続ける。

「何を持ってして彼を彼として認識するか。彼という存在は、確実に、変わっていないわけですから。」

 そう、彼の言う通り彼女という存在自体は何ら変わっていないのだ、変わったとすればそれは。

「好きなのですわ、誰よりも。」

「いってきます、お兄様。」

 愛していると告げた、自分に家族とは違う感情を持つ彼女と、それを持たない彼女。向けられた感情を受けていた自分が、寂しさに似たなにかを抱いてしまっているからなのだ。

 あの日の、あの時の自分が、望んだ在り方になっただけだというのに。

 湯気の消えた紅茶の海に映るのは、ひどい顔をした自分で、乾いた笑いが漏れた。

 

 雨上がりの、纏わりつくような空気とまだ濡れた道。あの日、彼女が眠っていたベンチに、触れる部分が濡れるのも構わず、そこに座っていた。

「……フローレスさん?」

 声をかけられて俯いていた顔を上げると、そこには隣人の彼が立っている。

「ナルミさん……。」

 こんなところで奇遇ですね、と彼は微笑んだ。そして、何を考えたのか少しの間の後、隣に腰を下ろして、こちらを見る。

「何かありましたか?」

 彼は心配そうにそう言うと、いくらでも答えを待つ、とでも言うように少し離れたところに植っている木々を眺めた。釣られて視線を向けると、あの日は満開だった、と関係のないことが思い出される。

 もう、半年以上経ったのだ。

「……例えば、の話です。」

 彼は無言で頷く。腿に乗せるようにしていた腕の先、祈るように組んでいた指を組み替える。

「もし、シオクラさんが、今のシオクラさんでなくなってしまったら……。ナルミさんはどうしますか?」

 彼は少しだけ目を見開くと、そっと視線を落とした。そして、前を向いて口を開く。

「……最初は受け入れられないかもしれないですね。」

 ポツリと放たれた言葉は、無言の空間に落ちて、霧散した。でも、と彼は続ける。

「彼女は、俺との記憶をなくしても彼女だから。」

 雨に洗われて、眩しいほどに輝く空と同じ色の瞳がこちらを向いた。そして弓のように細められる。

フローレスさんは輪廻転生、って信じますか?」

 そう聞いた彼は、ほんの少し迷うように口を震わせた後、瞳をゆっくり閉じた。

「俺はあるかもしれない、って思ってるんです。」

 曰く、既視感を覚えることが昔から多かったと彼は言う。

「彼女に初めて会った時、何故か安心したんです。」

 変ですよねと彼は微笑んだ。気の利いた返事が出てこなくて口をつぐむ。

「だから、俺はもし輪廻転生があるとしたら、彼女が彼女として俺の前に現れてくれる限り、彼女を愛するために何度でも生まれ変わりたいと思うんです。」

 湿った風が髪を巻き上げた。その言葉にハッとする。記憶を失う前の彼女は、あの日なんと言っていたか……。

ーそうそう、前にナルミさんに、もしエンさんが永遠のような命を持っていたらどうしますか、って聞いたんです。

 ケーキを突いていたフォークを置いて、彼女はうっとりとした表情を浮かべた。

「“彼女を愛するために何度でも生まれ変わるよ”ですって!私、素敵すぎて言葉が出なかったですわ!」

 頬を染める彼女に、自分はなんと言ったのだったか。嗚呼、そうか。だから彼女は。

「……ナルミさんは、良い人ですね。」

 今の話の流れでそうはならない言葉だろうに、彼は照れたように微笑む。きっと、彼のように優しければ、彼女の選択を無駄にすることをしなかったのに。

 でも、もう気がついてしまったからには止められない。自分が案外、猪突猛進で、かつ彼女のことになるとそうはならないことを、あの赤毛の少女が教えてくれてしまったから。

 

「おかえりなさい。ねぇお兄様聞いてくださる?」

 玄関先で出迎えてくれた彼女は嬉しそうに話しかけてくる。何も知らない純粋な瞳がこちらを射抜いた。

月下美人の花が咲きそうなんです!夕飯が終わったら一緒に見ましょう?」

「あぁ。」

 頷いてやれば、そうと決まったら早く夕飯を食べましょう、と食卓へ促される。

 数年前に隣人の彼女から貰った種を彼女が大事に育てていた月下美人。夏に花が咲くとは聞いていたものの、中々花をつけず残念がっていた。

「お兄様?」

 手にしていたフォークを置いて、彼女がこちらを覗き込む。

「いや、前から楽しみにしていたな、と。」

「そうですか!ふふ、同じところもあるものですね。」

 同じところ、ではないのだ。彼女は、ずっと彼女であることは間違いないのだから。

 だから、俺はきっと、諦められていたはずの彼女を、彼女が諦めようとさせてくれた彼女を、また愛してしまったのだろう。

 ゆるりゆるりと開いていく花を、月華が照らす。以前、隣人に貰った地酒を小さな猪口に注いでくい、と煽った。

 隣で静かに見つめている彼女は、こちらの視線に気がつくと、にこりと笑う。とくん、と心臓が跳ねた。

 あの日の彼女もこんな気持ちだったのだろうか。柄にもなく猪口を置く手が震える。

「……リリア。」

 夜色になった瞳がこちらを向いた。部屋から漏れる光が、横顔を照らす。

「俺があの日、あんなことを言ったから、お前は妹でいてくれたのだと思う。」

 ぱちりと、黄金色に輝く睫毛が瞬いた。息を吸い込む音がやけに鮮明に聞こえる。

「愛している、リリア。あの日より前からずっと。」

 揺れた水面が一度隠れて、見えて、音もなく一つ、滴が落ちた。震えた唇が窄められる。

「……本当に……?」

「……あぁ。」

 ぽつり、ぽつりと落ちる水滴をそっと拭うと、彼女は俺の手を両の手で握って額に当てた。

「……いいんですの?私は、もうお兄様の妹ではいられませんわ。」

 伝えなければならない。あの日、伝え損ねたこの想いを。

「リリアは……リリアだろう?」

 そっと抱き寄せれば、肩がじわりと濡れていくのが分かる。雲が晴れて、月光が降り注いだ。

 そっと彼女から身体を離して、置いていた猪口に酒を注ぐ。それを三度に分けて飲み干して、今度は彼女に勧めた。彼女は頬を紅色に染めながら、くすくすと笑う。

「もう、お兄様ったら。」

 密やかな三献の儀は、月と月の名を冠したその花だけが、ひっそりと見守っていた。

 

 

 穴から引き抜かれた鉄の塊を、手のひらに握り込む。物心ついた頃から暮らしたこの家とも、別れの時が訪れたのだ。

「リリア。」

 振り返るとそこには、薄紫の瞳をした彼女と、その伴侶。

「シオさん。……今まで、お世話になりました。」

 頭を下げると、軽く二度頭を撫でられる。感極まって抱きつけば、驚いたように固まった後、背中に手が回された。

「幸せになれよ。」

 心なしか潤んだ瞳でそう言われると、胸が詰まって、もっと伝えたいことがあるはずなのに、何も言えなくなる。

「……はい。」

 ふわりと風が吹く。青い空さえも旅立を祝福しているかのようだ。

「色々と、ご迷惑をおかけしました。」

「いやいや。ただ……シオが寂しがるんで、たまには遊びに来てくださいね。」

 隣に立つ彼の挨拶に、茶目っ気たっぷりに返された言葉は、彼女の眉を吊り上げさせた。

「ナル……!」

「本当のことだろ?あ、お屋敷はちゃんと俺らで管理しておくからさ。」

 頷いて、手にしていた鍵を渡すと彼はにっこりと笑う。彼がそっと肩を叩いた。

「リリア、電車の時間が迫っている。名残惜しいのは分かるが……。」

 その言葉に是をと答えて、二人に笑いかける。

「また、お会いしましょう。」

 

 騒めく市場を並んで歩く。一度は離したこの手が今、私の手を包んでいるのは、少し不思議だ。

「今日も一緒に来たのかい?仲睦まじいねぇ。」

 顔馴染みの店主が、袋に品物を詰めながら、そう言うと、彼は恥ずかしそうに頬を染めた。

「えぇ。私の大切な人ですもの。」

 受け取った袋は、するりと彼に取られて、その腕の中に収まる。ふわりと何かが通り過ぎ、その奥に赤と藍の頭が見えた気がして、立ち止まった。

「どうした、リリア。」

 覗き込んだ彼に、何でもないと首を横に振る。もう一度そちらを見ても、雑踏の中にあの見知った色を見つけることが出来なかった。

「きっと、また会えますわ。」

 再び歩き出した二人を、白く浮かんだ月が見守っていた。

Sailor's valentine

 淡い山吹色の花と、それを幾重にも囲むのは輝く貝殻。花さえ貝殻で作られたそれを、母は薄く頬を染めて自慢げに見せた。

 隣をちら、と見れば黎明の瞳を輝かせた君が、母に謂れを聞いている。

「船乗りが陸で待つ家族や恋人に贈るの。」

 こう見えて器用なのよ、と母が笑うと隣に立つ父が照れ臭そうに頬をかいた。

「綺麗だな。」

 同意を求めるように向けられた視線に、とくりと心臓が跳ねる。

「こういうの欲しい?ま、待ってろって。」

 俺の軽口にわざとらしいため息を吐くと、ほんの少し口の端を上げて言った。

「将来、好きな人に贈ってやれ。」

 

 

 港で少しずつ買い集めた貝殻と、こっそり作った八角形の額縁。羅針盤を模したとも言われるその形の中央には、あの子の好きな、庭の木と同じ名前を持つ貝で作った、大ぶりの花。

 周りはあの子の髪と、瞳の色を入れて仕上げた。悟られないようにと、夜半に灯りの下で進める作業は、気がつけば朝日を見ることもある。

「出来た……。」

 窓の外を見れば、街の下が燃えて空は薄紫に染まっていた。キリ、と痛んだ胸の痛みは無視をして、机の上に置いたそれをそっと戸棚に隠す。

 嬉しそうに笑うあの子の顔が、浮かんで消えて、俺は、少しでも休もうとシーツの海へ、身体を沈めた。

 

 ナルさんの色も入ってますね、とその子は微笑んだ。壊してしまいそう、とそっと持ち上げられたそれは、ベッドルームのサイドテーブルに飾られる。

「ナルさん。」

 振り返ったその子が勢いよく飛び込んできて、受け止めきれなかった俺は、腰掛けていたベッドにそのまま倒れ込んだ。

 ふわりと、背中に回した手に、赤が落ちてくる。しばらく胸に耳を当てていたその子は、徐に身体を起こすと、俺の頬に手を当てた。

 まるで存在を確かめるように往復させた後、その子は口を開く。

「あまり遠くへは行かないでくださいね。」

 私、弱くなってしまったので、と笑うその子の後頭部を引き寄せた。

夜を舐める Rewright

 

_____憧憬には、いつも君がいる。

 

「……ナルさん?」

 窓の外に浮かぶのは十六夜。隣で穏やかな寝息を立てていたはずの、あの人が大切にした幼子が、身体を起こしている。

「ごめん、起こしたか?」

 その子は少し口を開いた後、唇をほんの少し噛んだ。そして、俺の隣に座ると、軽いけれど確かな人の熱を持った身体を預けて、小さく息を吐く。

「ナルさんは、」

 ポツリと、夜の闇に言の葉が落ちた。太陽の下で見るよりも幾分か深みを増した翠の瞳が、俺を映す。

 瞳の中の俺は、この子の前で見せられないような情けない顔をしていた。瞳が揺れて、シーツの海へと逸らされる。

 小さな手が膝の上でぎゅっと握られた。

「……行っても良いんです。ナルさんが私といるのは、私の……わがまま、だから。」

 その子は困ったように眉尻を下げて笑う。その表情はあの人にそっくりなのに、何故か君を思い出した。無理をして笑っている、から。

「ふふ。皆には内緒ですよ。」

 あの人が照れ臭くなった時みたいに、また笑って、人差し指を唇に押し当てる。

 その子は、俺が咄嗟に伸ばした手に背を向けるように、布団に潜り込んでしまった。宙ぶらりんになった手を、そっと降ろす。

 震えていた小さな肩が、疲れたように静かになって、また穏やかに上下するまで、空から星の瞬きが消えて君の瞳の色に変わるまで、ただ、そこにいた。

 

 

「なぁ、ナルセ。」

 その人は、いつもの酒場でいつものように、氷をカラリと鳴らして言った。

「お前が、大切なもんを作ろうとしない理由。俺はある程度、分かってるつもりだ。」

 この人の言葉は、いつも俺の核心を突く。いや、そういうところがきっと、あの人を支えているのだろうけれど。

 だけどな、と琥珀色の液体に口をつけてから続ける。

「それじゃあ大切なもんを、その手から零すことだってある。零したものは戻らない。“覆水盆に返らず”だろう?」

「……そういうとこ、セージさんって意地悪いっすよね。」

 俺の返答に喉の奥で笑ったその人は、まぁ何が言いたいかって言うと、とその話を締めくくった。

「お前も大切なもんを作れ。この国に居続けるなら尚更な。」

 

 びゅうと冷たい風が吹いているが、どこか浮ついた雰囲気の街を並んで歩く。普段は憂鬱な雪すら、白い花のように感じられるのだから不思議だ。

「ナルさん。」

 ふわり、と白い息が広がる。俺の着ている薄青のコートの袖を掴んだ指先が、赤くなっていた。

「あの、ちょっとだけ見に行きませんか。」

 その子が示す方向には、広場の中央に飾られたクリスマスツリー。人だかりが出来ていて、この時期ならではの光景だな、と普段は足早に通る人々を思った。

「行こうか。」

 コクリと頷いて、ほんの少し口の端を緩ませる笑顔は、少しだけ君に似ている気がする。

 色鮮やかに飾り立てられた樅は、蝋燭が灯され、ゆらゆらと輝く。ふわりふわりと舞っている雪に、冷える前に帰ろうと促そうとしたその時、その子の名前が聞こえた。

「ルクリア!」

「あ、ニック。」

 親しげに返された愛称に、可笑しそうに笑う顔に、俺の知らない、その子の世界があることに気がつく。そして、同時にいつも自分の元へ帰ってきてくれていたあの子が、どこかへ巣立ってしまうのだと思い知らされた。

 楽しそうなあの子の姿に、先に帰っていよう、と思ってふらりと人混みを抜ける。さっきまで花弁のように感じていた雪が、今は重たく感じた。

 家が見えてきたところで、ふいに左手が掴まれる。驚いて振り向くと、そこには息を切らしたその子が立っていた。

「……な、なんで先に帰っちゃうんですか……⁉︎」

 尚も言い募ろうと口を開いて、唇を噛む。ぎゅうと力を入れられた手が温かい。

「……ごめん、リアが楽しそうにしてたから。余計な気を使っちゃったな。」

 その子はただ首を横に振ると、手を繋いだまま歩き出した。家に着いてからも終始無言だったが、寝ようとベッドを準備していたところで、枕を持ったその子が扉の前に立っているのに気がつく。

「どうした?……ははーん、ちっちゃい頃みたいに一緒に寝たくなったか〜?」

 からかって言ったつもりが、コクリと頷かれ閉口した。先に布団に入り、隣を叩くと猫のようにするりと潜り込む。夜、寝る前にだけ見ることのできる癖の少ない髪がベッドに広がった。

「おやすみ、リア。」

「……おやすみなさい、ナルさん。」

 灯りを消して、布団に潜り込む。幼い頃のようにこちらに抱きつくことはないけれど、俺が布団に入ったのを見届けてから、その子は目を閉じた。

 

 ふいにぱちりと目が覚める。隣を見やると、布団に膨らみがなく急激に目が冴えた。

 眠りにつく前よりも、1人分冷たくなったシーツに手をついて身体を起こし、ひたりと冷たい板張りの床に裸足の足を下ろす。手には今しがた自分に掛かっていた毛布を持って。

 リビングに面した大きな窓からは月明かりが差し込み、その姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。庭に植えられた薄紅の花を咲かせる木には、雪が薄らと積もっていて、空へと張り巡らされた枝は淋しく見える。

 風邪を引くぞ、と声をかけようとしたその時、緑色の瞳からぽとり、と光の粒が落ちていった。

 息を切らして駆けつけたあの夜も、あの人が土の下へと埋められたあの日も、決して泣くことのなかったこの子が泣いている。

 ギシリとどこかで音が鳴った。

 ぐいと寝巻きの袖でそれを拭ったその子が、こちらを振り返って笑う。あの人によく似た笑顔で、無理をする。

「ナルさん。」

 いつになったらこの子は、俺に傷を見せてくれるのだろうか。それとも俺は、それに値しない存在なのだろうか。

「リア、どうした?」

 細い肩にぱさりと毛布を掛けて、衝動のままにその身体をぎゅっと抱きしめる。俺より幾分小さな手が、背に回って、じわりと熱を感じた。肩口にある額がぐり、と押し付けられる。

「……ナルさん。」

「ん?」

 一緒にいて、と震えた声がくぐもって聞こえた。ぎゅう、と込められた力にその切実さが知れる。

 嗚呼、昔、夢を見ると言っていた。雪の中、自分を置いて行ってしまう両親。追いかけても追いかけても届かないその背を最後に、目が覚めると。

「……うん、いるよ。」

 ずっと、とは言ってあげられない。この子もそれを分かっている。それでも望むのはきっと、俺もこの子も、大切な人を失ってしまったからだ。

 

 

「……で?ナルセは何を悩んでるの?そんなの疑いようもないと思うけど。」

 目の前に座る男が、心底分からないという顔で、皿の上のケーキにフォークを突き立てた。

「いや、本当にそうなのかなって。ほ、ほら、リアってそういうところ鈍いしさ!」

 しどろもどろになった俺に、わざとらしいため息を吐いた男は、ビシリとフォークを突きつけてくる。

「あのさ、じゃあ聞くけど、ナルセが思うリアの理想の今後って何?」

「え、あ、うーん……。」

 あの子が、誰かを好きになって、愛されて、大切に思われて……幸せになってくれればそれで良い。失ったものの分だけ、いや、それ以上に幸せになってくれれば、それで。

「それってナルセじゃダメなの?」

 あっという間にケーキを食べ終えた男は、フォークをこちらに向けて上下に揺らした。

 でも、それはきっと俺じゃなくて……そう、この間の彼のようにあの子と同じぐらいの歳の……。

「ね、ナルセってリアのこと大事なんじゃないの?歳とか、周りのこととか、そういうの気にしないで守ってあげたい人なのかと思ってたけど。」

 違うの?と小首を傾げる。その言葉にハッとした。

 多分、俺は無意識のうちに臆病になっていたんだと思う。君を、守れなかったから。

「……そうだな。ありがとな、テオ。」

 大体さ〜、と男は呆れた顔で言う。

「ナルセは近くに居すぎて忘れてるのかもしれないけど、相手はリアだよ?」

 今度は俺が、心底分からないという顔をする番だった。それを見た男はまったくもう、と言いながらぐいと身を乗り出す。

「あのセージの娘で、あのフェンネルの姪で、グラフィアスの所属がほぼ決まってるような子が!なーんにも知らずに、ナルセの隣にいるとは思えないけど。」

 ナルセってそういうとこ鈍ちんだよね、と彼は面白そうに笑った。

 

 俺は、ちょっとばかり緊張していた。俺の隣に腰掛けたその子は、不思議そうにこちらを見る。

 窓から入り込んだ淡い光に照らされた瞳が、キラリと瞬き、さらりと赤い髪が落ちた。

「……リア。」

 情けなくも声が少し震える。少しだけハスキーなその子の声が応えた。

「俺は、リアのこと……守ってやりたいと思ってる。」

「もう、十分守ってもらってますよ。」

 ゆるりと目尻を下げたその子の肩に、そっと手を置く。伝わる熱は、確かにこの子が生きている証拠で、ここにいる証拠で。

「いや、その……リアのことを、大切に思ってる。これからも、隣にいても良いか……?」

 その子は驚いたように目を開いて、そしてゆっくりと閉じた。肩に置かれていた俺の手を握って、ゆっくりと降ろすと、揺れる瞳をこちらに向ける。

「本当に……?」

「ああ。」

 じわりと目の端に涙が溜まっていくのに、俺は慌てた。今まで、泣いたことのないこの子が、いや、本当はこの間のようにこっそりと泣いていたのかもしれないけれど、見せまいとしていた涙を、俺の前で零している。

「……私、怖いんです。また、いなくなるんじゃないかって。雪が降るたびに、そう、思って。だから「リア。」

 嗚咽を零すその子を、そっと抱きしめる。ベッドがギシリと音を立てた。

「……残念ながら、俺の方が随分歳上だから、きっとリアを置いて逝くと思う。でも、いつか来るその日まで、リアの隣にいたい。それじゃあ、ダメか?」

 首を横に振ったその子は、俺の寝巻きを掴んで震えている。整えようとしている呼吸が痛々しくて、そっと頭を撫でた。

 月が、窓から見える頃、そっと身体を離したその子が、こちらを見つめる。乱暴に拭おうとした手を止めて、そっと指先で粒を払ってやると、一呼吸置いて言った。

「……ナルさん。私、ナルさんがどんな人だって良いって思ってます。」

 真っ直ぐに俺を見るその目に、唇から紡がれた言葉に、俺は、息を呑む。

「私にとって大切なナルさんは、目の前にいる、小さい頃から一緒にいてくれたナルさんだから。」

 だから、とその子は笑った。泣き腫らした目で弧を描いて。

「これからも、一緒にいてください。」

 もう一度抱き寄せたその子は、おずおずと手を回すと、肩にそっと顔を埋める。柔らかな赤が首に触れてこそばゆい。

 バレないように小さな息を吐いて、敵わないな、と思う。あの人にも、あの人の大切なこの子にも。

「リア。」

 俺からは何もあげられないけれど。名前も、いつかの傷も話してあげられないけれど。それでもこれは、偽りじゃない。

____________。

 耳元で囁いた5音に、その子は嬉しそうに微笑んだ。

 

書きたいところを書きたいだけ書く その7

※魍魎少女っぽいパロディ+結構前に話した妖怪っぽいパロディのミックス

※舜槿様の不老不死設定を↑に合うように解釈しています。(グロめです。ご注意。そしてごめん……。)

 

昔々、そうじゃな、ざっと1000年ほど前じゃったかの。わしはとある国を訪れていた。ある時、わしの体質を知られてしまったのじゃ。

わしを恐れた人々は、なんと、わしの身体をバラバラにしてあちこちに封印してしまいおった。

そんな訳で、今はこの子と一緒にバラバラになった身体を探す旅を続けているのじゃ。

 

 異国の薬売り。

 そう呼ばれている齢10ほどの童女の売る薬は、さして珍しくもない漢方薬だったが、その効能が評判を呼んでいた。

「異国の薬売りだ!」

「ほんとだほんとだ!」

 大店の立ち並ぶ通りにある茶屋。童女の隣にあるのは大きな風呂敷と背負子のついた薬箱。

 みたらし団子を頬張る姿はそこらの童女とさして変わらないが、豊かな赤髪と目元を隠す薄布が怪しげな雰囲気を醸し出していた。

「あ、あの。」

「はい、何かお探しですか?」

 童女は微笑むと、首を横に傾げる。声をかけた少年は、お使いなんだと懐から銭を取り出した。

「奉公先の坊ちゃんが熱を出していて、熱に効く薬が欲しいんだ。」

 童女は頷くと、薬箱の中からいくつか薬包を取り出して少年の持ってきた袋に入れる。

「朝と晩に一包ずつ飲んでくださいね。」

「ありがとう。あ、そうだ次はどこに行くの?」

 少女は少し悩んだあと、庶民街の方を指した。

「隣の街に。」

 少年は、あっと言う顔をした後、そっと周りを見渡して声を顰める。

「隣の街はやめておいた方が良いよ。山側に抜けてもう一つ隣の街に行く方が……。」

「どうしてです?」

 小首を傾げた少女に、困った顔をした少年は、更に声を顰めて言った。

 その言葉を聞いた少女の口端が上がったのに気がつかずに。

 

「今回は本物だと良いですね。」

『そうじゃな。何度木乃伊を見たことか……。』

 畦道を歩く少女から、ではなくその腕に抱えた風呂敷包みの中から男の声がする。それにしても、とその声は続けた。

『行っては行けないとは、なんともきな臭いのぅ。』

「なんでも人魚の腕を手に入れたご主人の気が触れてしまったんだとか。食べちゃったんですかね?」

 人間の腕を食べるなんてどういう神経しとるんじゃ、と呆れたような声が聞こえて、少女はくつくつと笑う。

「ヒトは、ないものねだりなんですよ。」

 

……みたいなイメージを漫画から得ました!(続かない)

 

 

Licht

 

 終わった戦争は、未だ燻り続けている。

 振りかざした正義は、相手から見れば悪になり、大義名分を失えば罪になる。そして、戦争を望む声も、また。

「テロ集団の鎮圧の指揮を取ることになった。マルセル・オルディアレスだ。」

 戦争の英雄に瓜二つの青年は、そう部隊の前で言った。

 私たちが所属するグラフィアスは、あくまで諜報部隊で、表立って行動することは少ないのだが、軍は英雄にそっくりな彼を平和と戦争の終止符の象徴としたいらしい。

「同じく、副指揮官のルクリア・ロルカです。」

 あくまで柔らかに。ロルカの名と、この赤を持つ限り、私に刺さるのは好奇の視線だけれど、それは多分、隣の彼の方がもっとだろう。

 今回の鎮圧は戦争派テロ集団の本拠地を叩くもので、大きな抵抗が予想された。

 長く続いた戦争は、憎しみの火種がまだ残る。和平、となってもまだ、本当の意味での和平までは時間がかかるのだと思う。

 彼が、作戦の説明を締めくくった。

「我々の目的はあくまで鎮圧。無闇に命を奪うのは罪だ。ただ「オルディアレス軍曹。」

 彼の言葉を遮って口を開いた。話すのはあまり得意ではないのだけれど、でもその先は、私が。

「彼らは自分の意思を通すために命を奪おうとします。……こちらも相応の覚悟を。」

 皆が息を呑んだ一瞬の空白。そして是を示す声が響く。彼が解散を告げ、私も席を立つと、名前を呼ばれた。

 振り返ると苦虫を噛み潰したような顔をした彼と目が合う。

「すまない……。」

 何に対して言っているのか、そして何を心配してくれているのか、火を見るよりも明らかだ。

 でもそれは、私の意思で選んだことだから。

「いいんです。」

 いつのまにか抜かれてしまった背丈は、私が見上げるほどで、太陽が眩しい。

 目を細める。

「マルセルくんは、皆の光でいてください。」

 軍の考えとか、そんなものは置いておいたとしても、これからの英雄は、きっと彼のような人がなるべきだと思う。

 優しくて、明るい、私の、幼馴染。

「リア。」

 俺はそんなに綺麗じゃないよ、と彼は綺麗に笑った。

PSYCHO-PASS Virtue and Vice

PSYCHO-PASS Virtue and Vice』

 当時の私は「舞台オリジナルか〜、拡樹くん主演だし当たらんだろ。」と観劇しなかったが、いやマジ観れば良かった、と後悔するレベルで良い作品だった。

 

以下、抽象的に書いているつもりだが、ネタバレに注意。

 

 まず、アニメ一期からの脚本家による圧倒的なストーリー構成。

 約2時間の公演の中で、アニメとはまた違った事件とシビュラの闇を描いていて、何というかすごい。

 この作品では、「人間らしさとは何か」がテーマで、 PSYCHO-PASSシリーズ内で幾度となく取り上げられてきた「潜在犯は犯罪者」か、シビュラシステムで管理された世界は正しいのか、が中心に取り上げられていた印象。

 拡樹くん演じる潜在犯を信頼していない監視官、九泉と和田くん演じる潜在犯を信頼する監視官、嘉納。まるで一期以前のギノと狡噛、一期のギノと朱ちゃんを彷彿とさせるような対立関係だが、この2組と違うのはお互いのことを全く理解できていないこと。ここが最後までキーになっていたのかな、と思う。

 あと、本編に全く関係ないのだけれど気になったのは作戦実行中のコールサインについて。恐らく舞台版は原作ファンではなくて俳優ファンも来るためか、「シェパード」「ハウンド」のコールサインは使われない。原作ファンとしては、ちょっと違和感というか、もったいない感もあったが仕方ないのかな。

 

 次に音楽。

 私は時雨のファンなので、舞台に提供された音源(laser beamer)は知っていたが、個人的にはabnomalize使っても良かったのでは???と思ってしまった(ファンとしてクソ)。

 ただ、この舞台との歌詞の親和性は抜群。時雨らしい抽象的な歌詞と舞台のテーマがあっていて、舞台を観てから歌詞カードを見るとすごい。

 それは置いておいて、作中の主要音楽はアニメ版から抜粋。特に印象的だったのが最終シーンの楽園で、もうこれはさ〜(察してください)。アニメの劇中曲がどのシーンで使われていたか分かっているとよりグッとくる演出でした。

 他にはドミネーター、望み(光かも。該当アレンジが見つけられなかったので他の曲?)、 PSYCHO-PASSなんかが使われてて、アニメファンとしては嬉しかった。

 

 最後に特に印象的だったキャラクターについて。

 まず執行官の大城くん。彼は一期のトラウマキャラ、縢くんをイメージしてもらえれば。縢くんとは違って、諦観しているのではなく、自分の信じる人を希望として生きているタイプ。

 ただ、分かっていたけど彼の最期も中々で、けれど決して恨まないところが似てるな〜と思いました。

 

 次に私の推しキャラ、蘭具くん。オタクキャラ、という設定はあるものの、他の濃いメンツに比べると薄い印象。続編のVV2には名前違いで登場しているそうで、何やら過去にあったのかな……?元漫画家って言ってたけどな???

 その辺りはちょっとよく分からないのだが、とりあえずまぁ背が高いのでアクションが映える映える。インテリかと思いきや意外と武闘派だったり、クールに見えて実は熱い、そんなギャップ萌えなキャラでした。これ以上は言うまい。

 

 そして主人公、九泉くん。これだけ主人公が自分の道を惑うのも初めてじゃないか?って感じ。

 アニメ版で近いのは宜野座さん。彼の場合は潜在犯落ちへの恐怖だったけど、九泉くんは、自分を正当化するための潜在犯嫌いな印象。

 この辺りは最終的にキーになるのでネタバレを控えるが、最終的に嘉納の提案に対して、彼の出した答えがとても印象的。

 それが例えシビュラの意図に沿わずとも彼がその答えを導き出したことに観客としては感動した。

 

 てなわけでまとめる。

 VV2をやっていたのを知っていたので、この展開にはびっくりしたが、まぁシビュラならそうするなと納得の作品。

 やっぱり舞台版ということもあって、人間性や過去について掘り下げる暇はないので、その辺りが気になる人にはおすすめできないが、それを除いても PSYCHO-PASSファンは観てみても良いんじゃないかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ラストシーンについて言及するので、ネタバレ注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞台暗転後、楽園のBGMと共に光の方へ向かう目黒さんのシーン。人影は6人、目黒さんが向かうとなれば、3係の結末はお察しの通りという感じ。

 でも、きっと皆一様に楽園を見つけられたのかもしれないなと思った。(そういうところが深見さんの脚本らしさ)

 

 

 

 

 

 

(蛇足)

 知恵袋で最期はどうなったか分からない終わり方をしていると回答していた人を見かけたが、深見さんがここまで描いて彼らの物語に続きがあるようには……ね。

 正直舞台版だし、いやいや1人ぐらい生き残るっしょ〜って中盤まで思ってた私を殴りたい。というか全員死んだのシリーズ通しても初めてでは???人が死にまくった2期ですら須郷さんとか生き残ってるしね??

 本編でちょこちょこ潜在犯から色相がクリアになる人も見ているので、余計に……ね?

 

 あと、本当にこれ蛇足だけど、目黒さんが「パートナーと養子とで暮らしていた。」って話をしていて、深見さんは毎回そういう要素も取り込んでくださるな、と思った。流石です。

 

擬似家族

0.重なる影

中央に置かれた棺と、その周りに飾られた花。そしてキチッとスーツを着て快活に笑う赤髪の男。左右に分かれた親族の左側には、真っ赤に目を腫らした黒髪の女性と義父、義母らしき老夫婦が座っていた。右側には喪主らしい亜麻色の髪の男性とその隣に赤髪の少女。後ろには男性の奥さんと子供たちが並んでいた。

葬儀は厳かに行われ、男の人柄かたくさんの人が訪れた。

そうして参列者の少なくなった部屋でそれは起こった。左側に居た親族がおざなりに右側の親族に挨拶をして帰ろうとする。黒髪の女性は逡巡を見せた後、深く頭を下げる。去っていく背中に後ろに座っていた亜麻色の髪の少女が立ち上がって言葉を投げつけた。

「It's your fault! You ... because of you, my uncle…!(貴女のせいよ!貴女の…貴女のせいでおじさんは…!)」

「Hortensia.(オルテンシア)」

男性が少女を諌めるも少女は腹の虫が収まらないのか、肩に置かれた手を振り払ってツカツカと帰ろうとしていた親族に歩み寄った。

「I will say it in this case. The old man and the old lady there are the worst! But you are also the same sin. Do you know how much my uncle suffered? Do you understand how much Lia felt lonely?(この際言ってやるわよ。そこのじじいとばばあが1番悪いのよ!でも、貴女も同罪よ。おじさんがどれだけ苦しんだか知ってる?リアがどれだけ寂しい思いをしたか貴女に分かるの?)」

涙目で睨みつけながら激昂する少女に赤髪の少女が駆け寄った。

「I'm alright. ... Thank you, Hortensia.(私は大丈夫だよ。…ありがとう、オルテンシアお姉ちゃん。)」

泣き崩れた少女の背中を小さな手で撫でる。黒髪の女性が何かを老夫婦に言って離れる。老夫婦は少女の言葉は分からなかったようだが、悪いことを言われているということは分かったらしく、憮然とした表情で会場に背を向けた。

女性は少女、リアを抱きしめると何かを言っている。リアは頷いて笑顔を見せる。女性はもう一度抱きしめるとやはり会場を出て行った。

「君がナルセ君かい?」

少し訛りのある声に振り向くと亜麻色の髪の男性が立っていた。

「えぇ。I'm Narumi Seiya.Nice to meet you,Mr. Lorca.(成海正也です。はじめまして、ロルカさん。)」

「You can speak English! Then, you could understand the argument just before... I showed you an unsightly argument.(君は英語が話せるのか!それならさっきの話も分かっていたね。お見苦しいところを見せてしまったよ。)」

あ、僕はセージの兄でフェンネルって言うんだ。よろしくね、と差し出された手を握る。

「Do you take care of Lia?(あなたがリアを引き取るんですか?)」

「No... Lia said “No”.Lia can speak both English and Japanese, and I think that there is no problem overseas. But, I think she do not want to leave her mom 's side.(いや…リアが嫌だって言っててね。リアは英語も日本語も話せるし、海外での生活も問題はないと思う。でも、きっとお母さんのそばを離れたくないんだろうね。)」

困り顔で笑う男性の視線の先にはオルテンシアという少女に座って背中を撫でられているリア。それがあの日の彼女の背中と重なって見えた。そう思った瞬間、俺の口から言葉が溢れた。

 

1.出会いはカレーライスとともに

「ただいま…。」

今日はセイの上司の葬式だった。私も良くしてもらったので、出席していたがセイが親族の方に直接挨拶してから帰りたいというので先に家に帰ってきていたのだった。

「おかえり、セイ。夕飯はまだだろう。食べに行く……なぜ娘さんを連れて来ている?」

セイの後ろにぴったりくっついて来ていたのは紛うことなく先の上司の娘さんだろう。

「あ、あのなエンちゃん。そのぉ…リアをしばらく家で預かることになった!」

「はあ⁉︎」

 

かくかくしかじかとセイは説明をする。もちろん正座だ。

「それで?」

「…ロルカさんが仕事先にどうにか日本に転勤させてもらえないか打診して決定するまでの間、預かってくれないかって。会って決めるなら早い方が良いかなと思って…。」

話すにつれて縮こまっていくセイの頭にため息を落とす。本当にお人好しで困ったものだ。

「第一、この子の母親はどうした。母親が引き取れば何も問題はないだろう。」

「お母さんには新しい家族がいますから。」

それまでセイの横で所在なさげに座っていた少女が、妙にはっきりと言い切った。

「なるほど。」

私の応えに、じゃあとセイは顔を輝かせるが、それを視線で制する。

「だが、やはり人さまの娘さんをこんな誰も帰って来ないような家に置いておくのは気がひける。然るべき施設で預かってもらった方がこの子のためだ。」

「…そうなんだけど…。ここ、リアの実家にも学校にも近いんだ。家に人がいないのは前から変わらないから、それだったら前とほとんど変わらない生活ができた方が良いって…。」

確かによくよく考えてみれば、セイの上司なのだから、一応は家に帰っていたとしても遅かったし不定期だったはずだ。

束の間の沈黙が流れたその時、セイの腹の虫が鳴いた。

「…お台所をお借りしてもよろしいでしょうか?」

小さく笑って少女はそう提案した。

 

「出来ました。」

湯気を立てているのは半分白ごはん、半分ルーが乗った国民食。煮込んでいる間に作ったサラダ、スープがあってとても30分で作ったとは思えない食事が目の前に置かれた。

「お、美味そ〜!いただきます!」

「いただきます。」

少し大きめに切られた具材、水の量も完璧だ。とても小学生が作ったものとは思えない。

「…何をしている?」

少女が中々手をつけようとしないので問いかけると困ったように笑って言った。

「…牛乳をいただいても良いでしょうか?」

それならと頷いてコップに入れて渡すとお礼を言われる。そしてそれにスプーンを突っ込んで2匙、カレーにかけた。

「ちょ…リア何してるんだ…?」

セイが食べる手を止めて聞くと、少し恥ずかしそうに少女は言った。

「こうすると中辛でもまろやかになるんです。…家では甘辛で2人分作っていたので。」

なるほど、と私もやってみる。確かに少しスパイスの棘が取れてまろやかに感じた。

「これはこれで美味しいな。」

そう言うと少女はにっこりと笑顔を見せた。

 

「セイ。」

少女に洗い物は任せて風呂に入ってこいと言って、2人で台所に立っていた。

「ん?」

「その…私たちでいいのだろうか。」

お前はまだしも、私は料理もあの子よりできないし、そもそも親の…と言ったところで頬を手で挟まれた。

「ほーんとエンちゃんはさ…。大丈夫だよ。」

「何を根拠にそんなこと…!」

私がいきり立つとぎゅっと抱きしめられた。

「な…あの子が出てきたらどうする…「エンちゃん。」

セイに真面目な声を出されるとどうしたらいいのか分からなくなる。腕の中でおとなしくしているとあのね、と言葉を続けた。

「リア、お母さんと暮らした記憶はほとんどないらしいんだ。もちろん、年に何回かは会っていたけれど、お母さんが家にいるってことは無いに等しい。」

だからさ、とセイは私の目を見て言った。

「リアにとって、家にいるお母さんはエンちゃんにしかなれないんだよ。」

本人の意思とセイのその一言もあり、こうして私と、セイ、そしてリアの不思議な家族生活はスタートした。

 

2.パンケーキで分かること

3人での生活が始まって2週間。最近、ようやく軌道に乗ってきた。
結局、家事はリアに任せてしまっている。本人は苦にならないと言うし、こちらもどちらかが休日に洗濯物の山と格闘するということがなくなって助かっていた。
「ただいま。」
トタトタと軽い足音が聞こえてひょこりと小さな頭が覗く。
「おかえりなさい、エンさん。」
2人で週に2日、つまり1日は定時であがってリアと買い物に行くことにしている。スーツから着替え、リアを呼び寄せる。
「行こうか。」
連れ立って近所のスーパーマーケットへと向かう。段々日が長くなってきて、19時を過ぎた頃だと言うのにまだ薄明るい。
行く道すがらはつい無言になってしまう。私がどう接したら良いのか分からないし、リアもおしゃべりな方ではないようだ。
「最近はどうだ?ちゃんと友だちと遊んでいるか?」
セイが聞いたらなんだその親父みたいなセリフと言われそうだが今は居ないので無視だ。無言よりはマシだろう。
「はい。この間はアランくんとローランくんのお家にお邪魔しました。クロエママ……お母さんがすごく面白くて…。」
何やら思い出したらしく、クスクスと笑っている。楽しそうな様子に少しホッとした。多分、おそらく、いや、少なからず寂しい思いをさせていると思っていたからだ。
「そうか。今度会ってみたいものだ。」
それがこれまたセイの上司の奥さんであることを知るのはもう少し後だ。
と、リアが街角で足を止めた。
「どうした…?…ふむ。」
リアが視線を注いでいたのはちいさなカフェの看板。そこには生クリームがたっぷりと乗って甘そうなパンケーキの写真が貼られていた。
「…今日はここで食べてみるか?セイは遅くなると言っていたし、連絡しておけば大丈夫だろう。」
パッとこちらを見たリアの顔には喜色が浮かんでいたが、しばらくすると瞳が右往左往し、下へと落ちて行った。
「いえ…今日は特売の卵と鶏肉を買わなければいけませんから。…また今度にしましょう。」
…気を使われてしまったと思った。やはりまだ、完全には受け入れていないのだろう。
寝る時もダブルサイズのベッドの真ん中で寝ているが、距離がある。…セイが大体抱き込むが。赤の他人であるのだから当たり前だが、こうも甘えられないと少し寂しく感じてしまう。
「エンさん…?」
「いや。そうだな、また今度にしよう。」
年よりも大人びて見える少女の可愛らしいところを見たのに、何もできない自分が少し歯がゆかった。

 

「何やら悩んでいるのか?」
「…ルシオール課長…。えぇ、まぁ少し…。」
私が所属している警察庁特殊犯罪捜査第2課の課長、リオラ・ルシオールがデスクに来ると、周りの同僚たちもわらわらと集まってきた。
「また何か悩んでいるのか!今度はどんな悩みだ?」
「もう!兄さんはどうせ頼りにならないんだから!シオミさん、私が相談に乗りますわ。」
豪快な兄バレットとしっかり者の妹オペラの兄妹も話しかけてくる。
「そ、そこまで深刻な悩みでは…。」
「しかし、最近ロルカの娘御を預かっていると聞いたが?」
そのことではないのか?と聞いて来るのはガイラス。長身の美男子だがその実態はルシオール課長の妹君、リリアにベタ惚れのちょっと…いや、だいぶ残念な人だ。
「…その、この間パンケーキに興味があるようだったので食べないかと言ってみたのですが遠慮されてしまって…。本当は食べたかったけれど、私だから気を使ったのではないかと…。」
けれど無理に言うようなことでもないと思いまして…と言うとリュカがポンと手を叩いた。
「なら、お家で作ったらどうでしょう?」
「家で…?」
えぇとリュカは頷く。
「家でパンケーキを焼いて、生クリームやフルーツなんかを自分好みにデコレーションするんですよ。この間甥っ子とやったんですが、とっても喜んでいました。」
コミュニケーションも取りやすいですしねとリュカが言った。
「それは良い案だ!ミランの所でもそのような事をやっていたな。」
次第に話題はパンケーキに何を乗せるか、あぁでもないこうでもないと移っていったが、有意義なアドバイスがもらえたと思う。早速週末にやってみよう。
「悩みごとを話すと良いこともあるだろう?」
ふと見上げると、そう言ってルシオール課長は笑っていた。

 

薄力粉、ベーキングパウダー、卵に砂糖、牛乳、そしてしっとり感を生み出すために必要なのはヨーグルト…らしい。それらの材料を前に私は腕まくりをした。
「よし…。」
「大丈夫かよ…?逆にリアがいた方が良かったんじゃ…。」
隣に立つセイを視線で黙らせる。リアは今、件の友だちと夢の国に行っている。
今朝、インターホンの音でセイがドアを開けた先に立っていた人物に私は目を丸くしてしまった。
「おはようございます、フォートリエ課長!」
「…おはよう。」
仕事は出来るが、近寄りがたい雰囲気を醸し出すセイの上司、ミラン・フォートリエがドアの前に立っていたのだ。
「無理言ってしまってすみません。お願いしますね。」
「いや…。貴様らも2人でゆっくりしたいこともあるだろう。それに…元々約束していたしな。」
フォートリエ課長は足元で準備万端とばかりに立っているリアの頭を慣れた様子で撫でて、少しだけ悲しげな色を瞳に浮かべた。帰る前に一度連絡を入れると告げて、リアを連れて出かけて行ったのだった。
「おーい、シオミちゃーん?戻ってこーい。」
少しだけ今朝のことを思い出してぼーっとしてしまっていたらしい。目の前で振られる手にはっとする。
「あぁ。では作るぞ。…まず小麦粉とベーキングパウダーを合わせふるいする…。この合わせふるいとはなんだ。」
「んん〜?あ、ほらこのふるいにどっちも入れてふるうんだよ。」
そう言われて渡されたのは丸い粉ふるい。そこに分量通りに小麦粉とベーキングパウダーを入れる。
「…こうか?」

ボウルの上で横に振ってみる。粉がパラパラとボウルの外に落ちてしまう。見兼ねたセイが後ろから回って手を添えてくれた。

「こうやって、片方の手でふるいを持って、ボウルの上で固定させるんだ。そしたら、もう片方の手でトントンって枠を叩いて…。」

言う通りにトントンと叩けば粉が真下に落ちていく。

「なるほどな。ふるいと言っても振らなくて良いわけか。」

 リアと作るときにこんな情けないところを見せられないなとセイに言うと笑って言った。

「そんなに気張らなくても大丈夫だよ。」

そうか?と聞くと頷いてくれた。リアは、喜んでくれるだろうか。

卵白は泡立ててメレンゲに、先に卵黄と砂糖を混ぜ合わせ、ヨーグルトと牛乳を入れる。そして先ほどの粉を入れ、バニラエッセンスを少々、最後にメレンゲを入れればタネは完成だ。

「おー、すでにふわふわだな!後は焼くだけか…。」

「うむ。では…いざ!」

熱したフライパンにタネを一すくい流し入れた。

 

「…出来た…。」

「沢山焦がしたけどな。」

隣で茶々をを入れてくる奴の足を踏んだ。

「だが、これで完璧だ!焦らず、じっくり低温で焼けば綺麗に焼ける!!」

綺麗なきつね色に焼けたパンケーキを前にそう言えばポンポンと頭を撫でられた。

「これでリアも喜んでくれるな。」

「…本当にそう思うか?」

セイは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、眉を下げて笑った。

「当たり前だろ。大して手伝ってないけど俺も楽しかったし。リアだって喜ぶに決まってるさ。」

ホッと息を吐く。これでなんとかパンケーキは作ることが出来そうだ。そして最後の問題は…

ホイップクリームを作らなくてはな。」

そう、リアが見ていたパンケーキにはたっぷり生クリームが乗っていたのだった。もちろん、市販の泡立ててあるものを使っても良かったが、ネットで調べてみると、あまり身体に良くないそうだし、なにより量が食べられないという意見が多かった。やはり、自由にやらせてやるには自分で作った方が良さそうだったのだ。

「氷水の上で冷やしながらやるのがコツらしいぞ。」

ボウルに氷水を入れて、その上に生クリームを入れたボウルを乗せてハンドミキサーを手にする。泡立て始まればあっという間にとろみがついてきた。

「エンちゃん、あんまり泡立てすぎるとまとまらなく…って、もう止めろ!ストップ!」

「え?」

 セイの慌てた声にハンドミキサーを止めて手元を見ればホイップクリームが出来上がっているように見えた。

「完成か?」

「…まぁ、そうだな。ちょっと泡立てすぎてボソッとしちまってるけど…。味には問題ないはずだ。」

言われて見れば角が立ちすぎて少しボソボソしてしまったようだ。

「…次に活かそう。」

結果、私にしてはフワフワのパンケーキが作れ、生クリームの味も悪くなかった。

 

「ただいま。」

「おー、おかえり!フォートリエ課長、お世話になりました。」

19時頃、リアが帰宅した。セイとともに頭を下げれば構わんと返された。

「では「リアちゃん!これが噂のナルセさんとエンさんね!!」

フォートリエ課長の後ろからひょこりと女性が出てくる。

「クロエ…近所迷惑だ。」

「それもそうね!あ、私ミランの妻のクロエです。よろしくね?そうそう!もし学校とかのことで分からないことがあったら聞いてちょうだい!息子たちが同じ学校なのよ〜。」

声は小さくなったものの、マシンガンのように話すクロエさんに目を白黒させているとリアがちょいと袖を引っ張った。

屈むとこそこそと耳打ちしてくる。

「アランくんとローランくんのお母さんです。面白いでしょう?」

「…確かに。」

頷くとリアがちょっと嬉しそうに笑った。

「リアを預かっています、塩倉汐海です。こっちは成海正也。いつもフォートリエさんにはお世話になっております。どうぞ、よろしく。」

「私もエンちゃんって呼んでもいいのかしら?」

えぇと頷くと嬉しい!と言って隣のフォートリエ課長を見上げた。

「さ、帰りましょ。またね、エンちゃん、ナルセくん!ママトークもしましょうね〜!」

「…騒がせたな。」

嵐のように去っていったフォートリエ課長夫妻に暫し呆然とする。

「リア〜楽しかったか〜〜??」

セイが聞くとすぐに頷いた。そしてカバンを降ろすと中から小さな袋が2つ出てくる。中身を確認すると1つずつ私とセイに渡してくれた。

「お土産です!」

中身を出してみるとどうやら色違いのストラップのようだ。

 「…ありがとう。でも、これではリアの好きなものが買えなかったんじゃないか?」

そう言うとリアは少し困ったように笑っていた。

「気に入らなかったですか?」

「いや!嬉しいよ。」

それならいいんですとリアは言う。

「私だけ買うよりも、皆の分を買って嬉しくなってもらった方がいいんです。」

「リア〜!!!!」

がばっとセイが抱きつく。私も、リアの優しさが嬉しくてセイに促されるまま抱きしめた。苦しいですと笑うリアもとても嬉しそうに見えた。

 

「さて、今日のお昼はパンケーキを作るぞ。」

コクリと隣でリアが頷く。リアが手伝ってくれたのもあり、しっかり予習をして焼き上げたパンケーキは綺麗な黄金色をしていた。

「お、美味そうじゃん。」

匂いにつられてソファから立ち上がりこちらに寄ってきたセイにボウルとハンドミキサーを渡す。

「さあ、生クリームだ。…失敗するなよ?」

「エンちゃんと違って失敗しませんぐっ!」

余計なことを言い出したセイの口を慌てて塞ぐ。幸いなことにリアに気づいた素振りはない。足の指を思い切り踏んづけてからリアの元に戻る。

「さ、好きなものを乗せていいぞ。今、セイが生クリームも作ってるからな。」

コクリと頷いたリアが先に切ってあったフルーツに手を伸ばす。輪切りになったキウイに一口大のパイナップルや房の薄皮を剥いたオレンジ。普段料理をするとはいえ、やはりカラフルなフルーツや生クリームを乗せて甘いパンケーキを作るのは楽しいのだろうか。真剣にパンケーキと格闘していたと思っていたら、いつの間にか私の方を見ていた。

「エンさん。」

呼ばれて首をかしげるとリアが内緒話をするように耳元で囁いた。

「ありがとうございます。」

こうしてリアとの距離は少しずつ、けれど順調に縮まっていったのだ。

 

3.思い出と綿菓子

 まだまだ暑い秋の夕方。夕飯の前だからと、リアと半分にしたアイスを咥えて歩いていると、神社のしめ縄が張り直されているのを見つけた。

「何かあるのか?」

「もうすぐ秋のお祭りがあるんですよ。ローランくんが楽しみだって言ってましたから。」

そういえばそんな時期か、とナルセは思う。毎年のことだが、仕事に忙殺されているために、実感がない。

「じゃー今年は3人で行くか!」

そう言うとリアは驚いた顔して俺を見上げた。

「で、でもお二人ともお仕事ですよね…?私のことは気にしなくても大丈夫ですし、去年はクロエママに連れて行ってもらったので…。」

自分が言ったことで俺たちが気を使ったと思ったらしい。以前に比べれば自分の意思を言うようになったと思っていたし、俺たちに甘えるようになったと思っていたけれど、こういうところはまだまだらしい。ポンとリアの頭に手を置いて数回撫でる。

「いいの、俺たちが好きでやってるんだから。それともリアは一緒に行くの嫌か?」

俺の言葉に首を横に振るが、まだ申し訳なさそうにするリアにこっそりため息を吐く。そんなに気にすることではないのにと思うのだが、きっと親子2人暮らしでわがままを言えないこともあったのだろう。

「それじゃ決まりな。ちゃんと予定空けとけよ?」

そう言うとコクリと頷いてはにかんだ。

 

夏祭り当日。先程からリアの実家でエンちゃんが格闘していた。

「で、ここをこの紐で結ぶんです。」

「うむ…?リア、上手くいかん。」

浴衣と。

「エンちゃーん。だから俺がやってやるって。」

「くっ…仕方ない、あまりリアを待たせるのもな。仕方なくだぞ!」

ほら、やれとばかりに両腕を広げたエンちゃんに笑いがこみ上げてくる。そんなところも可愛いんだけど。

「少し足開いて立って…。リア、中心線は大丈夫…だな。じゃあ腰紐結ぶぞ〜。」

そこからおはしょりを作って、はだけないように紐で止め、伊達締めと帯を締めれば完成だ。白地に藤の花が描かれた浴衣はエンちゃんによく似合っていた。

「エンさん、似合ってます!!」

混じり気のない褒め言葉にエンちゃんは照れ臭そうに笑った。

小さな手に引かれ、三人で下駄を鳴らしながら夜道を歩く。神社への道にはしめ縄が張られ、彼方此方にある提灯がお祭りの雰囲気を助長していた。

沢山の屋台が並ぶ境内は、賑やかで多くの人が思い思いに楽しんでいた。逸れないようにと繋いだ手の先でリアが瞳を輝かせながらキョロキョロと辺りを見回していた。

「思っていたよりも盛況だな。」

エンちゃんもしげしげと周りを見回してそう言った。お互い不規則に働いている時もあるために、この手の行事には参加したことがなかったため、その言葉に頷く。

「そうだな。あ、そうだリア、好きなものあったら買ってやるから。」

「…はい。」

その言葉にリアはコクリと頷いた。

 

「リア〜、本当に欲しいものないのかよ?」

この言葉にもリアはコクリと頷いた。あれから屋台を冷やかしていたものの、終ぞリアが何かをねだることはなかったのだ。遠慮しているのか、何も強請らないリアに少し悲しいような気持ちがする。

「リア、私たちのことなら気にしなくていい。量のことを気にしているなら私が半分食べてやるから。」

エンちゃんもかがんでリアと目線を合わせるとそう言って笑った。すると、困った顔をしたリアがゆっくりと指をさした。

「……それなら、綿菓子買っても良いですか?」

ようやくそう言ったリアにホッと胸をなでおろす。やはり、遠慮していたのだ。

「はい。落とすなよ?」

お金を渡してニヤリと笑ったエンちゃんに、リアもやっと笑う。一人で行けると言うリアに、狭い境内だから大丈夫だろうと、それならここで待っていると伝えると、頷いて人混みに紛れていった。

「いや〜それにしてもこういうの、懐かしいな。」

そう言ってから後悔して、慌てて口をつぐんだ。エンちゃんのことを気にしたからだったが、その答えは予想と違っていた。

「あぁ、そうだな。私も連れて来てもらったことがある。」

驚いた顔を向けると、エンちゃんが吹き出した。

「何をそんなに驚いている?私も両親と半分にして色々なものを食べたものだ。」

エンちゃんは人混みの方に向けていた身体を反転させて、目の前にあったかき氷屋を見遣った。キラキラと眩しい屋台は子どもの頃、無性に心が躍るものだったなと思う。

「まぁ、父が生きていた頃の話だが。」

そうエンちゃんはいつもの表情の読みにくい顔に戻って締めくくる。

「じゃあ、また今日も良い思い出にしような?」

俺の咄嗟の言葉にエンちゃんはキョトンとすると、ふわりと笑った。

「あぁ。」

その時

「お父さん、お母さん!」

必死な、誰かを引き留めるかのような声と共に後ろからギュッと抱きつかれた。突然のことにびっくりして後ろを振り返るとそこには綿菓子を持ったリアがいた。

数秒固まったリアはハッとすると眉を下げた。

「あ……ご、ごめんなさい!私…。」

「良いんだぞリア〜。俺らはそう思ってくれてる方が嬉しいぞ?」

な、とエンちゃんに同意を求めれば、ぎこちないながらもちろんだと頷いた。多分、リアの身長では人混みの中から俺たちの浴衣が垣間見えたのだ。浴衣はリアの両親のものだから……、両親が仲睦まじく立っているように見えたのを、また失くしてしまわないようにと自然に出てしまった言葉と行動なのだろう。ただ間違えたのとは違うことを、十二分に分かっていた。

「ち、違…本当にっ…ごめんなさい…。」

「そんなに気にしなくても…ってリア⁉︎」

みるみるうちに緑色の瞳に溜まっていく涙に慌ててしまう。エンちゃんを見るも何が何だかという顔で宙に手を彷徨わせていた。

ポロポロと本格的に涙を流し、嗚咽をこぼし始めたリアを抱き上げる。襟元に顔を押し付け、喉を引きつらせながら震えているリアの背をトントンと叩く。持ったままだった綿菓子はエンちゃんが受け取り、そっと頭を撫でた。

これが、俺たちが見たリアの初めての涙だった。

 

すっかり泣きつかれてしまったらしいリアを抱え、家への道を歩く。お互いに無言の時間を過ごしていた。

「なぁ。」

意外にもその沈黙を破ったのはエンちゃんの方だった。

「ん?」

「私たちに、リアはいつか話してくれるだろうか。」

躊躇いがちに言ったその言葉に少し考える。

「今日の理由?」

そう聞けばエンちゃんは首を横に振った。

「いや、自分がどうしたいかだ。」

そして視線を落とすとポツリと呟く。

「多分、リアは全て知っている。自分の両親のこと、自分が親戚の中でどのような立場なのか。」

「それが、今日のことと関係がある…って言うのか?」

エンちゃんが頷く。はっきりと頷いたその様に思い当たる節があった。

「それは…やっぱり…その…。」

言いづらそうにした俺にエンちゃんはあぁ、と言うように頷いた。

「経験からだ。しかし」

エンちゃんはそこで言葉を切るとリアの涙の跡が残る頬をそっと指でなぞった。

「母親の愛を知らない私ですら、私で良いなら母親になってやりたいと思うほど、見ている方は辛いのだな。」

そう言ったエンちゃんの顔がまるで母親のような慈愛に満ちていたのを、きっと本人が知る由はないのだろう。

 

4.涙のアフォガート

私は、周りから望まれない結婚をした夫婦の元に生まれた。

父の家は名の知れた家で、同じくらいの家柄の娘と息子を結婚させようとしていたらしい。しかし、意に反して父は普通の家庭に生まれた母を連れてきた。その身体に私という命を宿して。

父の家族による猛反対はあったものの、二人の意思は固く、堕ろさせるのも聞こえが悪いと、ほどなく結婚することとなった。母に対する風当たりは強いままであったが。

そして、父の死によって私たち家族は崩れ去った。母が母でなくなったのはもちろん、父の実家からの心無い言葉のせいでもあったと思う。しかし、それ以前から母は母ではなかったのだと私は知った。

「あの人と同じ目で私を見ないで!」

母にとって私は、愛する人との間に生まれた”愛する人が愛している”存在でしかなかったのだ。そう、母は私という存在ではなく、愛する父を通して私という存在を愛していたのだ。

 

「ただいま。」

その日はリアとの買い物の日であるため、早めの帰宅であった。

普段ならすぐに返ってくるはずの声が聞こえず、小首を傾げながら中へ入ると、小さなダイニングテーブルの上にネコ柄の可愛らしいメモが置かれていた。確かセイが置き手紙用に買い与えたものだったか。

「あぁ、クロエさんの所。」

今日はアランくんとローランくんと遊んでいるという書き置きに少し笑みがこぼれる。せっかくだから迎えに行こうかとスーツを脱いで動きやすい服に着替えた。

その時、服の中で携帯電話が震える。ディスプレイにはセイの文字が浮かんでいた。

「もしもし。」

『もしもしエンちゃん⁉︎あ、えっと、今リアと一緒にいる?』

何故そのようなことを気にするのかと思ったが、仕事に関することかと思い、いないと伝える。

『良かった…。詳しくは帰ってから話すけど、フェンネルさんを通じて、リアの母親から連絡があった。』

「そうか…。分かった、今日は夕飯待っているな。」

おう、と少し硬い声が聞こえて電話が切られた。靄がかったような暗い気持ちを払うように首を振る。

「迎えに行かねばな。」

私たちの暮らすアパートから徒歩10分のところ、リアの実家の向かい側がフォートリエ課長のご自宅だ。チャイムを鳴らすとクロエさんに出迎えられた。

「あら~エンちゃん!ちょっと待っててね、リアちゃん呼んでくるから。」

リアちゃ~んと呼ぶ声が遠ざかり、奥からトタトタと軽い足音が複数聞こえたと思うと、再び扉が開かれた。

「こんばんは!」

「こんばんは。」

勢いよく開いた扉に驚いていると、栗色の髪の男の子が挨拶をしてきた。返してやると花が咲いたように満面の笑みを浮かべる。

「ローラン、リアが出られないだろ。」

今度は深い赤の男の子が現れ、私に会釈をした。

「エンさん。」

その後ろから出てきたリアに手を差し出すと、少し照れ臭そうにしてから手を繋いだ。

「ありがとうございます。いつもいつもお邪魔してばかりで…。」

「いいのよ~。私も娘がいるみたいで楽しいし。」

クロエさんと少しばかり立ち話をしていると、誰かが私の袖を引いた。

「なぁなぁ!」

袖を引いたのはどうやらローランくんの方だったらしい。首をかしげると、ローランくんは私の方を指差した。

「エンちゃんがリアの新しいお母さんになるのか?」

「バカ!」

慌ててそれをアランくんが止める。返答に困ってリアを見るとリアも困った顔をしていた。

「ごめんなさいね。」

謝ってくるクロエさんにいえ、と言って笑う。

「ではまた。リア、帰ろう。」

コクリと頷いたリアを連れて今度はスーパーへと向かう。

またポケットで携帯電話が震え、ディスプレイを見ると、クロエさんからメールが入っていた。

『今日は本当にローランがごめんなさいね。でも、私もあの子たちも貴女がリアちゃんのお母さんになったら良いのにと思ってるのよ。』

側から見れば私は、母親らしいことをしているのだろうか?何が正しい母親なのだろうか?

そもそも、母親に私なんかがなれるのだろうか?

たくさんの疑問が渦巻いていく。

『リアの母親から連絡があった。』

先ほどのセイの言葉に心臓を直接掴まれたようなそんな気がした。

この感情は何だ。

「エンさん?」

よほど難しい顔をしていたのだろうか。リアがこちらを不安そうに覗き込む。

「なんでもない。さ、今日の夕飯は何にする?」

先ほどまでの考えを頭の隅に押しやって、私はリアに笑いかけた。

 


セイも揃っての夕飯が終わり、私たちはリアも交えてソファに座っていた。

「リーア。」

セイがひょいとリアを膝に座らせる。そして顔を合わせると言った。

「今日な、リアのママから連絡があった。」

リアは少し驚いた顔をした後、ゆっくりと頷いた。

「それでな、ママはリアに会って話したいことがあるんだって。」 

「何の話ですか?」

そう聞かれてセイは意を決したように口を開いた。

「リアがこれから誰と暮らしていくのかについてだよ。」

リアは俯くと分かりましたと言った。セイは横にゆらゆらと揺れながら、なんでもないことのように聞いた。

「リアはどうしたい?」

「…私は…お母さんとは暮らせないです。その方が私にとっても、お母さんにとっても良いことだから。」

ぎゅっと膝の上で握られた拳は小さく震えていて、それを見たセイは安心させるようにその手を取った。

「じゃあリアは俺たちと暮らす?」

その言葉にリアは豆鉄砲を食らったような顔をした。やはり、セイはそこまで考えていたらしい。

「……ナルさんもエンさんも迷惑じゃないですか……?これから、ご結婚されるのに。」

リアは不安そうにそう言った。この子は自分の存在が邪魔になることを一番恐れている。家事も何もかもやってしまうのも、きっと私たちに邪魔だと思われたくないのだ。

私にはその気持ちが痛いほどよく分かった。

「迷惑なんかじゃないさ。」

私が言った言葉に今度はセイが驚いた顔をした。

「きっと、私たちの子はこんなになんでも出来るスーパーお姉ちゃんがいたら嬉しいぞ。」

リアは少し嬉しそうに小さく笑うと、お風呂に入ってきますと行ってしまった。結論は避けられてしまったようだ。

私たちの間に沈黙が降りる。セイがその沈黙を破った。

「エンちゃん、勝手にごめん。でも、エンちゃんが良いならリアを引き取ったって良いって思ってたんだ。」

リアが家に来た時から薄々そんな気はしていたし、私も異論はなかったので、頷く。

「これまではさ、家族ごっこって言われても仕方なかっただろ?でもさ、過ごした時間がニセモノなわけじゃない。」

「もちろん分かっている。だけどな、セイ。それを決めるのは私たちじゃない。」

セイの言いたいことも分かる。でも、私たちにできるのはただ一つ。

「セイが私にしてくれたように、あの子の判断を尊重して、受け止めてやるのが私たちの務めだ。」

セイは目を見開くと、はにかんだように笑ってそうだなと言った。


リアの母親と待ち合わせたのは隣町の喫茶店だった。とりあえず、とコーヒーとオレンジジュースを注文し、半個室の席に座っているとドアに付いたベルが来店を知らせた。

女性と男性は店員に案内され、こちらに向かって来る。

「はじめまして、莉有がお世話になっております。母親の天羽梓です。」

長い睫毛に縁取られた瞳が優しげで、とても娘を捨てて再婚するような人物には見えなかった。

リアの祖父らしい男性は会釈しただけですぐに向かいに座る。すると、端に座るリアがにわかに緊張したのが伝わってきた。

セイは安心させるようにそっと手を握る。

「はじめまして。リアちゃんのこと、預からせていただいています、成海正也です。こっちは婚約者の塩倉汐海。」

セイの紹介に会釈すると女性も返してくる。依然男性はむっつりと黙っていた。

と、そこで飲み物が運ばれて来る。どうやら梓さんたちは店内に入った時点で注文していたらしく、紅茶とコーヒーが目の前に置かれる。

「それで、お話というのは?」

単刀直入にセイが聞く。梓さんは少しためらった後、口を開いた。

「莉有のことで……。私が引き取ろうと思っています。少し難しい立場になることは重々承知していますが、この子が良いと言ってくれるなら一緒に暮らしたいんです。」

お母さんと一緒に暮らしてくれる?と梓さんは私たちの隣に座るリアに聞いた。リアは俯いて、オレンジジュースの水面を見つめている。ゆるりと水分をまとった瞳が梓さんを映した。

「私は、天羽莉有にはなれないよ。」

「どうして?莉有はお母さんと一緒に暮らしたくない?」

梓さんの問いにリア首を横に振った。

「でも、お母さんと一緒に暮らすのは、今のお母さんのお家でしょ?」

そうよと梓さんが頷くと、リアはそれならやっぱりダメだと言った。

「新しいお父さんが出来るのが嫌?」

その問いにもリアは首を横に振る。そのまま黙り込んでしまった時、今まで一言も口を開かなかった男性が声を出した。

「お前よりこの小娘の方が状況をわかっておる。こいつを家に入れるなど反対だ。」

リアがきゅうっと小さくなって震えた。それを見てセイが心配そうな顔を私に向ける。

「お父様、そんな言い方止めてください。この子は、莉有は私の大切な子です。杏介さんも良いと言っているじゃありませんか。」

梓さんの言葉に男性、リアの祖父は鼻を鳴らした。

「はっ、馬鹿馬鹿しい。外国人風情を家に入れるなど天羽家の恥だ。」

リアが頑なに母親と“暮らせない”と言った理由が分かった。この祖父のせいだ。

「……お母さんあのね、私がお母さんと暮らすときっと杏介さんや梧八くんに迷惑かけちゃうよ。」

リアが震える声で言った言葉に梓さんは眉尻を下げた。

「そんなこと…「あるもん!」

リアが大きな声で梓さんの言葉を遮った。そして、まくし立てるように涙声で話し出す。

「お母さんは、私が何も知らないと思ってる!おじいちゃんは、私のこともお父さんのことも嫌いなの知ってるよ?だから、お父さんはお母さんと離婚しなくちゃいけなくなったんでしょ⁉︎」

リアの瞳からボロリと大粒の涙がこぼれる。

「おじいちゃんは……、私と、お父さんのこと家族だと思ってないっ!私はあの家にいたくない!いちゃいけないんだもんっ‼︎」

「リア!」

店を飛び出したリアをセイが慌てて追いかける。カランカランとベルが鳴り響く中、追いかけようとした梓さんを私は引き止めた。

「離してください!」

「お気持ちお察ししますが、今は放っておいてあげた方が良いかと。セイに任せましょう?」

私の言葉に、梓さんは気が抜けてしまったように椅子に座った。

「これで満足だろう、梓。」

その言葉に梓さんの目からポロリと涙がこぼれた。私は机を叩いて立ち上がる。

「……少し、梓さんをお借りしますね。」

私は、はらわたが煮えくり返っていた。財布から十分すぎるほどのお金を取り出し、驚いている梓さんを立たせてまだ座っている男を睨みつける。

「貴方が居るのではあの子とこの人は話もできない。……いつまでその古臭い考えで人を傷つけるおつもりですか?名家が何だ。そんなに家に違う血が流れるのがお嫌で?」

机に叩きつけるようにお金を置き、梓さんの手を引いて店を出る。

後ろで喚いている声が聞こえたが、心は先ほどよりも晴れていた。

 


先ほどの場所から少し離れた暖かな雰囲気の店に入り、セイに連絡を入れたところで、梓さんはポツリと言った。

「莉有は……私が思っている以上に聡明ですね。……母親失格なのかもしれません。」

目元を赤くして、自嘲するように笑った梓さんに私は首を振る。

「そんなことはありません。……梓さんは子どもが1番聡明になる瞬間をご存知ですか?」

視線を落としたまま首を振る梓さんに私は微笑む。私の母との関係がこんなところで役に立つとは思わなかった。

「両親のことです。親のことを子どもは敏感に察します。それはきっと好きだからなんです。好きの反対は無関心、ですから。」

私の言葉にハッと梓さんは視線を上げた。視線を落とすと、カップの水面に自分の顔が映っているのが見えた。

「私も早くに父を亡くしました。母は父を亡くして以来、少し心を病んでしまったんだと思います。」

完璧にやらなければ罵倒された日々、酒浸りの母、父と揃いの瞳。

「ひどいことも言われました。それでも、母のことを嫌いにはなれなかった。嫌いになれればどれほど良かったでしょう。」

梓さんは私の話を黙って聞いてくれる。これは私の話であり、そしてリアの話にも通じるのだと分かってくれたのだろう。

「好きだから、母の置かれた状況も何もかもわかっていました。だから、リアの話、もう一度よく考えてあげてください。」

お願いしますと頭を下げると梓さんが顔を上げてくださいと言った。視線をあげるとリアと同じように困った顔で笑う梓さんが居た。

「ありがとう。私にそんな大切なことを教えてくれて。莉有を貴女みたいな優しい人に預かってもらえて本当に良かった。」

「…お母さん、エンさん…。」

小さな声が聞こえてそちらを見ると、セイに連れられてやってきたリアは泣きはらした目をしていた。

「莉有……。」

梓さんに声をかけられても黙ったまま、セイの膝の上に座ったリアを私は撫でてやる。

「リア、お母さんの話、もう一度聞いてくれるか?」

コクリと頷いたリアに梓さんはホッとしたような顔をして私を見た。それに頷くと梓さんは莉有に語りかける。

「まず、謝らなければいけないわね。ごめんね、私が不甲斐ないばかりに莉有やお父さんに迷惑かけて。」

それにリアは首を振る。そして、少し枯れた声でこう言った。

「……迷惑って思ってない。お父さんが言ってた、お母さんは私とお父さんのために杏介さんと結婚したって。杏介さんも、私とお父さんのことを分かってて結婚してくれたって。2人ともとっても優しい人なんだよって。」

「そう……。それでね、莉有がもしお母さんと暮らすとなると、あの家に住むことになるの。お母さんは1番上のお姉ちゃんだから、お家を継がなきゃいけないって決まりがあるの。」

それを振り切って出て行ったが、なんらかの問題が発生して戻らざるを得なくなったということらしい。恐らく、2人に関係することだろう。

「だけどね、莉有のことお母さんは絶対、絶対守ってあげる。悲しい思いも、嫌な思いもさせない。」

梓さんの言葉はより真剣味を帯び、その瞳はまっすぐにリアを見つめていた。

「……ありがとう。でも、私やっぱりお母さんと暮らせない。おじいちゃんと暮らすのは……怖いよ。」

リアの言葉がポツリと落ちた。なんと声をかけて良いのか分からない。するとセイが口を開いた。

「僕たちは、リアが望むなら養子にしたいと思っています。それならリアも梓さんにこれまで通り会えるし、何より僕らがリアと一緒にいたい。」

その言葉にリアは真っ赤になった目をまた潤ませて、震える口を開けた。

「……私、おじいちゃんと暮らしたくない。でも、お母さんには今まで通り会いたいから、フェンネルおじさんのところに行くのはちょっと嫌だ。それに、ナルさんのこともエンさんのことも好き。離れるのは寂しいって思う。これは、わがまま、かな。」

梓さんは必死に首を振った。そして、リアの手を取った。

「そんなことないよ。莉有が許してくれるならお母さんはずっと莉有のお母さんだから。離れてても、莉有のことずっと大好きだから。」

その言葉にリアは嬉しそうに笑った。


梓さんが私たちに頭を下げて帰った後、リアは憑き物が落ちたように晴れやかな表情をしていた。

「せっかくの外出だし何か食べるか。リア、食べたいものはあるか?」

私がメニューを渡すと、小さな指がアイスクリームを指差す。

セイの注文したコーヒーとともにそれが運ばれてくると、リアは珍しくセイにコーヒーを強請った。

「いや苦いぞ?それに子どもはあんまり飲まない方が良いって話も……。」

困った顔をしたセイにリアは、スプーンひとすくいだけでいいのだと言った。根負けしたセイがコーヒーを渡すと、リアはスプーンでアイスクリームの上にコーヒーをかけた。

そして、アイスクリームをひとすくい、私のコーヒーに入れる。

「これは?」

どうしてもやりたかったこの行動の真意を聞くとリアは眉尻を下げて笑った。

「お父さんが、いつもやってくれたんです。だから……。」

トロリとコーヒーで溶けたアイスクリームを見ながらリアが初めて、私たちに父親の思い出話をしてくれた。

セイはそうかと言ってコーヒーを啜る。私も、アイスクリームが溶けて柔らかな茶色になったコーヒーに口をつけた。

「うん、美味しい。」

リアは涙の跡が残る顔に満面の笑みを浮かべた。

 

5.唐揚げが祝う門出

正式に梓さんからリアのことを頼まれてから2週間、秋風が吹き始めた頃、俺とエンちゃんはあることで頭を悩ませていた。

「休めると思うか……?」

「いや、意地でも休む。とりあえず申請だけでも出そう。」

俺たちの間に置かれた机の上には、リアが申し訳なさそうに出してきたプリント。『運動会 保護者競技のお知らせ』と書かれたそれは当たり前のことながら土曜日の開催で。俺たちは上司に何と説明しようかと途方に暮れていたのだが。

「あぁ、家にもそれが来ていた。構わん、俺も休む。」

「は?」

思わず口から出た言葉を咎めるようにフォートリエ課長が鋭い目を向けた。

「俺を何だと思っている。家族のために働いているのに家族を蔑ろにしては本末転倒だろう。」

「そう、ですね。」

フォートリエ課長は立ち上がるとすれ違いざまにポンと肩に手を乗せた。

「頑張れよ、負ける気はないが。」

フォートリエ課長のほんの少しだけ口の端をあげたそれに、俺はしばらく固まってしまった。

「明日は雨だ……。」

 

家に帰ると今日は先に帰っていたらしいエンちゃんが難しい顔をして本を読んでいた。

「ただいま、何読んでるんだ?」

「あぁ、おかえり。それよりセイ、イレーネさんと連絡を取りたいのだが。」

母さんに会いたいというまたしても珍しすぎる言葉に、明日は本当に雨に違いないと思ったが、気を取り直してエンちゃんに聞いた。

「うん、それは良いけど何で?何かあった?」

エンちゃんは時たま過程をすっ飛ばして話し始めるので、こういう時はきちんと聞いた方が良いことは長い付き合いの中で知っている。

「まず、私とセイが、その……本当に結婚するのであればもう一度挨拶に行きたいのだ。リアを引き取るのであれば予定より早く結婚して安定させた方が良いだろうし、あの子を養子にすることも伝えなければならないし…。」

あと唐揚げの作り方を教えてもらいたい、と続いた言葉に俺は空いた口が塞がらなかった。エンちゃんが……料理?

無意識に言葉になっていたらしく、拗ねたような口調でエンちゃんが言った。

「運動会の弁当といえば唐揚げが定番なのだろう?」

リアに作らせては意味がないと言う言葉に、ようやくエンちゃんの真意が読み取れて、つい笑みがこぼれる。

「了解。母さんに聞いとくわ。今週末は?」

「今のところ休みの予定だ。」

その時ガチャリと風呂場へ続く扉が開き、ひょこりと赤い頭がのぞいた。

「ナルさん、おかえりなさい。」

「ただいま。」

ほかほかと湯気が立っているその身体を抱き上げると、しっかりと手を回してくれる。そんな小さな変化が嬉しくてついつい構ってしまう。

「今週末、俺の実家に行こうな。」

そう言うとリアはきょとんとした顔をする。

「ナルさんの家ですか?」

「うん、リアのこと紹介したいんだ。ダメ?」

リアはふるふると首を振るとコテンと首を傾げた。

「ナルさんのお父さんとお母さんはどんな人なんです?」

そう言われるとどう答えるべきか悩んだ。自分から見た親というのは説明しにくい。

「大丈夫だ。どちらもとても優しい人だぞ。」

「本当ですか?」

エンちゃんが頷くとリアは安心したように笑った。

 

「ただいま〜。」

「お邪魔します。」

迎えた週末。俺たちが暮らす街からは電車で40分ほどの、潮風の吹く町にある俺の実家に行くと、親父が迎えてくれた。

「おぅ、早かったな……。」

俺の後ろ、エンちゃんの足元からはひょこりと赤い髪の子どもが覗いている。親父は目を瞬くと大音量で叫んだ。

「イレーネッ!!!!ちょ、お、お前正也ァ!いつの間に子ども作って……!」

その声にリアがびっくりして固まり、奥から出てきた母さんはあらあらと目を大きくした。

「小さなお客様もいるのね、いらっしゃい。とりあえず上がりなさいな。」

お邪魔します、と小さな声で言ったリアに母さんはにっこりと笑った。借りてきた猫のようにさらに大人しくなったリアは、エンちゃんの膝の上に乗っている。母さんが出してくれた麦茶を飲んでいると、やっと落ち着いたらしい親父が、口を開いた。

「それで、何か話があるんだったか。」

おう、と真面目な顔で言うと親父が母さんを呼んだ。向かい合うように座った2人を前に俺は意を決した。

「前にも話したけど、その、俺たち結婚しようと思ってる。」

母さんは優しく頷き、親父はすでに泣きそうになっている。

「ご無沙汰しております、塩倉です。この度は正也さんと結婚させていただきたく…「やっと決心したか正也ァ!!!エンちゃんをいつまで待たせるつもりかと思ったぞ!!!」

親父が立ち上がり俺の肩を容赦なくぶっ叩いた。

「痛ッ!!親父落ちつけ!まだ話があんだよ!!」

感極まっている親父を落ちつかせるとエンちゃんが俺を見て頷いた。

「それでな、この子を養子にしようと思ってる。」

2人の視線がリアの方を向く。リアはエンちゃんの膝の上でグッと唇を噛んだ。まだ不安らしい。

「リア、挨拶してくれるか?」

俺が聞くと不安そうに俺とエンちゃんの顔を見た後コクンと頷いた。

「……ルクリア・A・ロルカです。その、こせきじょう?は天羽莉有って言います。えっと、その……。」

困ったようにリアがこちらを見てきたので、その続きを説明する。

「俺の亡くなった上司の娘さんでさ、複雑な家庭の事情……あとで説明するけど……それで俺たちと暮らさないかって話したんだ。」

それまで静かに話を聞いていた親父がガタリと立ち上がり、エンちゃんの前に立つ。2人の不思議そうな視線が親父に突き刺さる。

「ルクリアちゃん、だったか?」

「……はい。」

親父はデカい。上から見下ろされると圧倒的な威圧感があるし、笑っていないとどちらかと言うと顔が怖いタイプだ。萎縮したリアを親父はその太い腕で軽々と抱き上げ、抱きしめる。

「今日から俺がおじいちゃんだぞ〜!よろしくな!」

そう言いながら顔を崩し、ゆらゆらと揺れる親父にリアは目をパチクリさせた。

「おじいちゃん?」

「そうよ〜私がおばあちゃんよ〜。」

いつの間にか親父の隣に立った母さんがニコニコと笑って自分を指差す。

「おばあちゃん……。」

よろしくねと差し出した母さんの手をリアがおずおずと握る。

こうしてリアはあっという間に我が家のアイドルと相成ったのであった。

 

エンちゃんとの結婚の話とリアの養子の話はトントン拍子に進み、俺たちは結婚届の保証人としての署名をもらおうと、再び実家を訪れていた。

夕飯を一緒に食べようと、母さんに言われた買い物を終えて帰ると、親父とリアの話し声が聞こえてきた。

「リアはさ、なんで俺たちのことはおじいちゃん、おばあちゃんって呼ぶのに正也たちのことはあだ名で呼ぶんだ?」

なんてこと聞くんだ親父!と思ったが、気にならない訳ではないので、そっと耳をすませる。

「……私には、この国におじいちゃんもおばあちゃんもいないから。だから、私のおじいちゃんとおばあちゃんはナルさんのお父さんとお母さんだけです。」

とつとつと話し出したリアに親父が相槌を打つ。

「でも、ナルさんとエンさんをお父さん、お母さんって呼んだら……、本当のお父さんとお母さんが、消えちゃうような気がして……。」

そうじゃないのは分かってるんですけどね、とリアが言うと親父は多分頭をわしわしと撫でたのだと思う、リアの驚いた声が聞こえた。

「そっか、嫌なこと聞いて悪かったな!」

「ううん、本当は呼んだ方が良いかなって思ってましたから……。」

リアの言葉に親父は気にすんな、と言った。

「呼び方なんて訳を話しゃいい話よ。俺は気になったから聞いただけだし。それよりもその他人行儀な敬語の方が俺は嫌だけどな?」

「……ん、頑張り、えっと、頑張る…ね?」

小首を傾げたリアを親父は満足そうに抱きしめた。微かな笑い声が聞こえ、楽しそうにしているリアにホッとする。肉親を失って半年以上が経ち、最初はほとんど笑顔もなかったが、最近はたくさん笑ってくれるようになった。

「ただいま〜。」

気を取り直してそう言ってリビングに入ると、エンちゃんが唐揚げと格闘していた。

「あら、おかえり。ちゃんと買ってきてくれた?」

母さんの言葉に頷いて買い物袋を渡す。真剣に揚げ加減を見ているらしいエンちゃんはこちらに目も向けない。

「頑張り屋さんだから、きっと上手く行くわよ。」

母さんが耳元でそう囁いた。それに微笑んで、ダイニングへと向かう。

そこには先ほど親父に署名してもらった結婚届が置いてあった。

リアとの養子の話は梓さんとやりとりをしなければならないので、まだ時間がかかるだろう。

「……不思議だなぁ。」

「何がだ。」

ようやく揚げ終わったらしいエンちゃんがそう聞いてくるので、机の上の紙を指差す。

「紙切れ1つで俺たちの関係にも、俺たちとリアの関係にも自分たち以外からも認められる名前がつくんだなって思って。」

俺たちの関係性が変わるわけではないのに、第三者からは変わるのだ。それが本物かどうかは、ただ紙の上で決められる。

「……そうだな。だが、それに縛られるからこそできることがあるのも事実だ。」

私たちがあの子に出来ることが増えるのだから、と優しい笑みを浮かべたエンちゃんに、改めて好きだと感じたのは内緒だ。

 

運動会を翌日に控えた夜、リアはパソコンを貸して欲しいと言った。

「良いぞ。使い方は分かるか?」

リビングの隅に置かれたコンピュータデスクを指差したエンちゃんに、リアは首を縦に振る。俺はすぐに自分の管理者アカウントでリアのアカウントを作ってやった。

「あの、えっと……Skypeを入れても良い?」

Skype……?」

機械に弱いエンちゃんの頭の上にはクエスチョンマークが浮かんでいるが、俺はやっと夜にリアがそう言いだした理由が分かった。

フェンネルさんとの連絡か?」

コクリと頷いたリアに入れておいてやるから先に風呂に入って来いと言うと、とたとたと駆け出していく。その姿を見送ったエンちゃんが俺の肩を叩いた。

「おい、Skypeとは何だ。」

「ん〜まぁビデオ通話とかチャット……リアルタイムで文字での会話ができるアプリケーションかな。割と向こうでは盛んだし、パソコンでできるから便利なんだよ。」

便利な世の中だな、と頷くエンちゃんにこみ上げる笑いを我慢してインストールを開始する。

何となく必要かと2人で購入したものの、使わずじまいだったパソコンがこんなところで役に立つとは思っていなかった。

「ナルさん!」

慌てて風呂に入ったらしいリアはまだ髪の毛から滴が垂れている。パソコンの前に座っていた俺の膝の上に乗ったリアは、元々持っていたらしいアカウント名を入れてログインしていた。

「ちゃんとあったまったのか?」

そう聞きながら苦笑したエンちゃんが、首に掛かっていたタオルで髪を拭いてやっていると、リアの頭がもぞりと動き、温まって来たのだと主張する。わしゃわしゃと拭かれているのを見ていると、画面にDillweedというアカウントと通話マークが出てきた。膝の上に座るリアの肩を叩く。

「リア、ディルウィードって人から電話かかってきたぞ。」

「ディルお兄ちゃんは従姉弟なので出てください〜。」

まだ髪を拭かれているリアがそう言うので、通話ボタンを押すと、物凄い勢いで亜麻色の物体が動いた。

Lia〜‼︎Sorry,I'm…I'm so useless〜〜〜‼︎(リア〜‼︎ごめんね、僕は……僕は、ダメなやつだよ〜〜〜‼︎)」

わっと泣き声をあげて突っ伏したそれを見たリアは苦笑する。以前会った時はしっかりした人だなと思っていたが、こういうところがセージさんと似ているのかと、失礼ながら面白く思った。

「Morning,Fennel. Mr.Narumi and Ms.Shiokura are next to me…Are you ok?(おはよう、フェンネルおじさん。私の隣に成海さんと塩倉さんがいるんだけど……大丈夫?)」

リアの言葉にバッと顔を上げたフェンネルさんの顔がみるみるうちに赤くなる。

「Oh,my god…」

「Oh,stop it…(もう、やめてよ…。)こんばんは、はじめまして。ディルウィードと申します。」

フェンネルさんを押しのけて画面に映った赤髪の男の子が流暢な日本語で挨拶し、こちらも会釈した。

「はじめまして、僕は成海正也。こっちは塩倉汐海です。」

「えぇ、リアから話を聞いています。リアがお世話になっています。」

ペコリとお辞儀したディルくんは、パパとフェンネルさんを呼び寄せる。

はじめまして、塩倉さん。リアの叔父です……と返すフェンネルさんは居た堪れないようで、リアが話題を変えた。

「So what happened?(それで、何があったの?)」

フェンネルさん曰く、どうやら異動希望が叶わなかったらしく、こちらには来られないとのこと。それを聞いたリアは俺と目を合わせると、かくかくしかじかと養子になることを話した。

「That's what Azusa agrees with, right?(それは梓も了承していることなんだね?)」

「yes.(うん)」

じゃあ僕に言えることは無いよとフェンネルさんは笑う。

「リアと僕たちはずっと家族だよ?」

「うん。ありがと、ディルお兄ちゃん。」

ディルくんもそう言って笑うと、フェンネルさんが僕らのほうを見て頭を下げた。

「リアのこと、よろしくお願いします。」

そう片言の言葉で告げられて、俺たちは慌てて頭を下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします。」

2人はよく似た顔でリアを愛おしそうに見たあと、また今度と通話を切った。

無音になった部屋でじわじわとリアと、そしてエンちゃんと家族になるんだという実感が湧いてくる。

「あ。」

ピコンと通知が来て、何やら英語のメッセージが送られてきた。それを開いたリアが少しにやけた顔をする。

「どうした?」

エンちゃんが聞くと、リアはいたずらっ子のような瞳で言った。

「叔父さんが結婚式には呼んでねって!」

ボンッと音を立ててエンちゃんが赤面したのはいうまでもない。

 

「ほい、完成。」

リアの長い髪を結ってやると、はにかんでありがとうと言った。エンちゃんはというと、キッチンでお弁当と格闘している。

「エンちゃ〜ん。そろそろリアが出る時間だぞ。」

「なに⁉︎リア、頑張ってな。」

ぽんぽんと頭を撫でてそう言うと、リアはこくりと頷いた。

「いってきます。」

いつものランドセルではなく、くまの耳がついたリュックサックを背負い俺たちに手を振って出て行く。

「エンちゃんは支度終わりそうか?」

「もうすぐだ。」

お弁当は父兄と一緒に食べても良いそうで、エンちゃんは張り切って、この日のために買った重箱に詰め込んでいる。

その間に俺は洗濯物を済ませて、レジャーシートやクーラーボックスの準備をしておく。

エンちゃんを見遣るとまだ忙しそうに支度をしていたので、愛用のジッポと小さな箱を引っ掴んでベランダに出る。

細長い筒状のそれに火をつけて、一口吸い込むと、ポケットの中で携帯電話が震えた。

『もうすぐ着くぞ\\٩( 'ω' )و ////』

親父からメッセージが入っている。こういった機械にはめっぽう弱かった親父だが、リアに教えてもらったらしく、最近は顔文字までつくようになった。

「また吸っているのか。」

その声に振り向くと、眉間にしわを寄せたエンちゃんが立っていた。

「口寂しいんだよ。」

「リアの教育に悪影響だ。やめろ。禁煙しろ。」

口寂しいならこれでも食ってろと、リアのらしい飴を口に放り込まれた。仕方なく俺はまだ長かったそれの火を消して、部屋へと戻るエンちゃんの肩を抱く。

「くさい。寄るな。」

「え〜。」

そういえば、あの人も吸っていたんだとフォートリエ課長が言ってたっけ。

嫌な顔をしたエンちゃんの頬に口付けて、俺も禁煙しようかなぁと思いながら、甘ったるい三角形の飴を噛み砕いた。

 

真剣な顔をしたリアがスタートラインに立つ。

パンッとピストルが鳴って、一斉に走り出した。

「リア〜!!頑張れ〜!!」

「リアちゃ〜ん!」

親父の野太い声援と母さんの声が重なる。リアは父親譲りの赤い髪を揺らしながら、周りの子を置き去りにして白いテープを切った。

「リア〜!」

俺が呼ぶと気がついたらしく、リアは笑って少し恥ずかしそうに手を振る。

「リアは運動神経が良いな!」

「あぁ、セージさん……リアの父親も空手だか柔道で段位持ってたような?」

父親似か!と笑う親父はすっかりじいちゃん面が板についた。

「それなら、正也よりも運動神経が良くなるかもねぇ。」

「父親としての面子丸つぶれだな!」

豪快に笑う親父に、エンちゃんもつられて笑っている。連続してピストルが鳴り、競技が終わったことを知らせた。

お昼の時間を伝える放送がかかり、応援席にいた子どもたちが、ぞろぞろと保護者の元へ向かう。

「リア!」

きょろきょろと不安げに辺りを見渡していたリアの表情がパッと明るくなって、こちらに駆けてきた。

「1位だったな!すごいぞ〜!」

太い腕でリアを抱きしめた親父にまんざらでもなさそうなリア。

「さぁさ、ご飯にしましょう。」

母さんがそういうと、エンちゃんが緊張した面持ちで重箱を取り出した。開かれたそれにわぁっと感嘆の声が上がる。

鮭や枝豆の混ぜ込まれた俵形のおにぎりに、ずっと練習していた唐揚げ、ほんの少し焦げた卵焼き、ヘタの取られたミニトマト、ピックでチーズと一緒に纏められたブロッコリー……。エンちゃんは力作たちをせっせと皿に移して配った。

「それじゃ、いただきます。」

皆が口々にそう言って、食べ始める。

「……どうですか?」

「美味しいわよ。本当にエンちゃんは頑張り屋さんね。」

母さんと親父の間でニコニコしていたリアは、卵焼きを口に入れた瞬間、驚いたように目を開くと、エンちゃんを見た。

「エンさん、これ……。」

「梓さんに教わったんだ。嫌だったか?」

リアは勢いよく首を横に振る。

エンちゃんがリアに知られないように練習していた卵焼きはほんのり甘い。

「美味しいです。ありがとうございます。」

「なら良かった。ほら、早く食べないと午後の競技が始まるぞ。」

リアはコクリと頷いて食べ始めた。最後まで大事そうに卵焼きを残しながら。

 

午後の部が始まり、いよいよ保護者競技が始まった。フォートリエ課長夫妻はというと、どうやら名物保護者のようで、やんややんやと応援される中ぶっちぎりの1位。

「負けてられないな。足を引っ張るなよ?」

「いや、エンちゃんこそ足引っ張らないでよ……?」

リアのために1位を獲ると意気込むエンちゃんと共に、デカパンと呼ばれる大きなズボンに足を通す。リアが戻って行った応援席の方を見ると、友だちだろう黒い髪の男の子と話していた。

「はい、では白線に沿って並んでください。」

先生たちに案内され、いよいよスタートラインに立つ。やる気満々のエンちゃんと、十数年ぶりのピストル音で走り出した。

「セイ!遅いぞ!」

「いや、エンちゃんだから⁉︎」

エンちゃんに叱咤されながら網を潜り、パンを咥えて走る。前を走る親御さんは、数メートル先を走っていた。

その時。応援席の横を通り抜ける瞬間、聞こえたのは。

「ナルさん、エンさん!頑張れ〜‼︎」

沢山の歓声の中から聞こえたそれは、紛れもなくリアのもので、俺はエンちゃんの手を取って思い切り走り出す。

「ちょっ……!」

体勢を崩したエンちゃんを半分抱えながら、俺はもう全力で走った。リアにかっこ良いところを見せるために。

接戦を制し、ゴールテープを切ったところで応援席の方を見ると、リアが手を振ってくれた。隣の男の子がリアの肩をつついて、俺たちの方を指差す。

もちろん、リアの声は聞こえない。でも、リアはたしかに言っていたのだ。

ー私の、新しいパパとママ。

「エンちゃん……。」

「ああ。」

きっと、これからも家族でいられる。

止まない歓声が、俺たちを包んでいた。

 

6.本当と偽物

『ぼくのおねえちゃん』 なるみ しょう

 ぼくには、だいすきなおねえちゃんがいます。

 

このあいだ、ぼくはみんなでおはかまいりにいきました。だれのおはかなの?とおかさんにきくと、おねえちゃんの本とうのおとうさんのおはかだといいました。

おねえちゃんは、ぼくのおとうさんとおかあさんとは、ちがうおとうさんとおかあさんがいるんだよといいました。

ぼくは、おねえちゃんが本とうのおねえちゃんではないことが、かなしくてなきそうになりました。

ぼくはおねえちゃんに、うそをつかれていたとおもったからです。

 

でも、その日のよる、おねえちゃんは、ぼくにうそをついているみたいでいやだったから、本とうのことをぼくにしってほしかったといいました。

本とうのかぞくじゃないけれど、ぼくのおねえちゃんでいてもいいかと、ぼくにききました。

 

ぼくはかんがえました。本とうのかぞくってなんだろう。いっしょにくらしていなくてもちがつながっていたら、かぞくなのかなとおもいました。

でも、ずっといっしょにいたら、それもかぞくだとおもいました。

ぼくといっしょにあそんでくれて、ぼくのごはんをつくってくれて、ぼくのいもうとをむかえにいったり、ぼくといもうとがけんかをしたらしかってくれるのは、かぞくだとおもいます。

 

だから、おねえちゃんはぼくのおねえちゃんだよといいました。

おねえちゃんは、ありがとうといいました。

そして、ぼくをぎゅっとだきしめました。

 

おねえちゃん。

ぼくにとって、おねえちゃんはちがつながっていなくても、だいすきでだいじな本とうのおねえちゃんで、ぼくの本とうのかぞくです。

 

 

「新郎、成海正也。新婦、塩倉汐海。あなた方は、子女、天羽莉有を幸せにすることを誓いますか。」

きっと、血の繋がりを見れば私たちは偽物の家族だろう。でも、この瞬間から私たちは他人同士から、本当の家族になったんだ。

「「はい。」」

 

『スウィング・キッズ』(原題:스윙키즈)

映画『スウィング・キッズ』こんなご時世ですが、観てきました。

もう途中から胸が苦しくて苦しくて、何をどう言ったらいいか分からないですが、思ったことをつらつらと書いておきたいと思います(ネタバレ注意かも)。

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まず、しばらくおかわりは要らないなと思いました。しんどすぎて。

鳥肌が立つような音楽、演技、熱いタップダンス。それに冷水どころか氷水を浴びせるようなラスト。

もう最近涙腺が弱すぎてすぐ泣くんだけど(マジで)、やっぱり泣きました。

ハッピーエンドはすぐそこだったのに、どうして。

小さな、他の人にとってはどうでも良いような、そんな幸せさえ、時代が許さなかったということなのかなと私は思う。

つらい。でも、落ち着いたらまた観たい。

 


とにかく音がすごい。

そもそも公開から結構経ったのもあって、足を伸ばして【極上音響】とかいうので観てきたのもあるけど、すごかった。生音やべぇ。

劇中で「Sing,Sing,Sing」が生バンドで演奏されるシーンがあるんだけど、クラリネットソロのためにサックス奏者の隣にクラリネット置いてあって感動した(置いた向きが壊れる向きだったけど、時間なかったのかな)。

「Sing,Sing,Sing」いつか私も吹きたい。クラリネットソロは死にそうだけど。

ともあれ、音楽にこだわってる(?)だけあって本当すごかった。

 


内容的には、色々なものに雁字搦めで板ばさみのロ・ギスが、境遇も人種すら違う、けれど同じ人間の仲間たちと、自由を掴もうとしていくのが丁寧に描かれている感じがして、うん。

国境のないものってなんて素敵なんだろう。絵も、音楽も、ダンスも。言語を介さない、けれど伝わるものがあると信じさせてくれる。そんな映画。

でもそれは、大前提として平和でなければならない。

平和でなければ、それは悪にすらなる。

難しいね。

 


私、相変わらずぎょんすの目が大好きだぁ……。

贔屓目かもしれないけど、表情を取り繕っていても、目が心情を雄弁に語りかけてくるの、本当好き。

予告の印象に比べて、楽しそうにダンスしているシーンって実はそんなにないんだけど、それでも彼が楽しそうにダンスするシーンは心が洗われるような。

終盤のソロシーンは本当に本当感動した。

 


そうそう、ぎょんすのソロシーン、本当に鳥肌が立った!

彼の演技もそうなんだけれど、個人的には、舞台を照らすライト、観客の拍手、何もかもがリアルで。あの筆舌に尽くしがたい高揚感と、心の震えが伝わってきて。きっと彼が、皆が見ることができた景色が、そこにはあったんだなって。

ロ・ギスが、全てから解放されていて、このまま解放されたいと、されて欲しい願ったシーンでもあるんだと思うけど、それが幻であるのが現実。

そのあとは、現実に戻される。

 


あと、ロ・ギスには前線の英雄であるお兄さんがいるんだけど、彼がお兄さんの幸せを願うように、お兄さんも彼の幸せを願っていたんだなって。兄弟のシーンは本当に少ないけれど、お互いに慈しみ合っているのが本当に良く分かる終盤でした。

きっと、周りの皆もロ・ギスの幸せを、才能を応援していたはずなのに、ね。

 


なんというか、私が音楽をやれているのは、とってもとっても幸せことだなぁと思わされた。

今という時が、ずっと続けば良いのにと思うぐらい、楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうけれど。

今年はコロナで、定期演奏会がなくなったけれど。

また次がある。生きてさえいれば。

 


まとめる。

彼らが、そこ居たのは現実で。彼らが、繋がっていたのも現実で。彼らが、全てから解放されていたのも現実で。

それなのに全て嘘になってしまう。

それでも、彼らは確かにそこで生きていた。

という感じ。

エンディングの「Free As A Bird」のメッセージがとても痛い。

自由は2番目。彼らにとって1番はなんだったんだろう。

 


一言で言ってしまえば、反戦映画。でもそれ以上に伝わってくるものがある。

皆、観てくれ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(この下マジでネタバレ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後、ジャクソンが収容所を去る時に、彼の顔の陰をタップスが反射した光(多分ロ・ギスのなんだろうね)が照らすんだけど、きっとあれは4人からのメッセージだったのかなって。

ダンスは彼らにとって、手段や目的もあったのかもしれないけれど、きっと希望の光だったと、ジャクソンがしたことは間違っていないと、後悔しないで欲しいと伝えたかったのかな、なんて思いました。

名前すら残らなかった彼らが、確かにダンスで繋がって、平等な関係で生きていたことを伝える講堂の傷が、とても悲しい映画でした。

 

しばらく「Sing,Sing,Sing」で泣くと思う(情緒不安定)。